中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。
第11回で取り上げるのは、槍ヶ岳の直下に建つ『殺生ヒュッテ』。1922(大正11)年に開業した北アルプスでも屈指の歴史を持つ山小屋で、昨年までは中房温泉が経営してきたが、今シーズンからは槍ヶ岳山荘グループとして新たなスタートを切った。インタビューの前半では中房温泉の百瀬孝仁さんに殺生ヒュッテの歴史を、後半では槍ヶ岳山荘グループの穂苅大輔さんに経営を引き継いだ経緯やこれからの展望を聞いた。
■中房温泉6代目・百瀬亥三松の「日本アルプス巡回路」構想
江戸時代の1821(文政4)年、百瀬茂八郎が松本藩の命により明礬(みょうばん)の鉱山を開いた際、湧出する温泉を利用して湯屋を設けたのが中房温泉の始まりだと言われている。明治になって近代登山が普及すると、中房温泉は登山基地として発展。時流を捉えることに長けていた6代目の百瀬亥三松(いさまつ)は「日本アルプス山系に巡回路を開き、適所に山小屋を建設し、登山者の便宜を図ろう」との構想を打ち出し、中房温泉が山小屋経営に関わる発端となる。
亥三松さんはなぜ、北アルプスに道を拓き、山小屋を建設しようと考えたのでしょうか?
百瀬孝仁さん(以下、百瀬)「亥三松には事業家としての顔があり、中房温泉の経営だけではなく、中房川で電源開発を行った安曇電気や、松本~大町間を運行した信濃鉄道などの役員を務め、地元では酒屋や味噌屋を営んでいました。また、長野県議会議員や明盛村(現・安曇野市三郷明盛)の村長も務めていたそうです。亥三松の中には、鉄道、温泉、登山などの事業を結びつけることで地域全体の振興につなげていこうという構想があったのではないでしょうか」
百瀬「その構想は息子であり、中房温泉7代目の彦一郎に引き継がれます。彦一郎は、中房から上高地を結ぶ登山道を整備したり、登山者の宿泊所や休憩所とするために15か所の山小屋建設の計画を進めていたという史料がわが家に残っています」
そのうちの2つが、殺生小屋(現・殺生ヒュッテ)と西岳小屋(現・ヒュッテ西岳)ですね。
百瀬「登山道を開き、山小屋を建設するにあたって、彦一郎が頼ったのが、近代登山以前から山を生業の場としていた人々で、その一人が西穂高村牧の猟師・小林喜作です。林野庁から許可を受けた彦一郎は、喜作に道の開削や小屋建設の費用として2,000円を渡しました」
2,000円という金額は、当時としてはどのぐらいの価値だったのですか?
百瀬「本棟造の家屋が3棟ほど新築できる金額です。喜作はその金で地元の人たちに手伝ってもらいながら、長男・一男とともに登山道を拓き、1920(大正9)年に大天井岳から槍ヶ岳に通じる道(旧「喜作新道」、現在の「アルプス銀座」「表銀座」)を完成させます。翌21(大正10)年には殺生小屋も完成し、22(大正11)年から営業を始めました。殺生小屋という名前は、喜作が捕獲した動物を処理(殺生)するために使っていた場所に建設されたことに由来しています」
「また、西岳小屋は、はじめは殺生小屋への荷継小屋として、1923(大正12)年に建てられます。のちに増え続ける登山者に対応するため、宿泊もできる営業小屋となりました」
殺生小屋はかなり繁盛したと。
百瀬「喜作新道は槍ヶ岳登山にかかる日数を従来よりも短縮する当時の最短ルートでした。そのため、多くの登山者が利用し、殺生小屋も大繁盛しました。しかし、小屋の管理を担っていた喜作は、1923(大正12)年3月に雪崩によって長男・一男とともに亡くなります。代わりに殺生小屋の管理人となったのが、百瀬家と親戚関係にあった中村喜代三郎です」
喜代三郎さんはのちに大滝小屋(現・大滝山荘)を買い取り、その息子の義親さんが蝶ヶ岳ヒュッテを開業します。歴史を振り返ると、北アルプスの山小屋同士のつながりもわかりますね。
百瀬「喜代三郎は百瀬家の分家から、代々庄屋をしていた中村家に養子に入りました。殺生小屋を建てたものの、管理人の喜作がすぐにいなくなってしまったものだから、誰かできる人はいないかと親戚中を聞いて回って、喜代三郎に白羽の矢が立ったようです」
計画していた山小屋のうち、殺生小屋と西岳小屋以外はどうなったのですか?
百瀬「うちに残っていた古い史料を調査してくれた梅干野成央先生(信州大学准教授)によれば、当時の申請文書や案内冊子などの内容から、殺生と西岳を含めた8か所は実現したようですが、7か所は実現したかどうかは定かではないそうです」
ひとつの山小屋を営業するだけでも大変なのに、なぜいくつもの小屋を造ったのでしょうか?
百瀬「曾祖父の亥三松や祖父の彦一郎が考えていたのは、多くの登山者を引っ張ってきて儲けようとか、そういう次元の話ではありません。中房から上高地への道を整備して、休憩や宿泊のできる山小屋を造り、登山者に北アルプス南部を周遊してもらおうという壮大な夢を持っていたのだと思います。それは事業家としてのロマンなんです。そんな歴史はしっかりと語り継いでいきたいですよね」