「秘湯」と呼ばれる温泉宿は日本各地に数多く点在しているが、那須岳山中の「三斗小屋温泉大黒屋」は中でも指折りの秘湯だと言える。その歴史は古く、江戸時代には山岳信仰の修験者や武士、商人などが湯治のために通い、昭和以降は登山者たちに親しまれてきた。現在でも宿まで車道が通っていないため、たどり着くには山道を自らの足で歩かなければならない。

 6代目主人である高根沢春樹さんに、宿のこれまでの歴史や登山客を迎えるにあたって大切にしていることなどを聞いた。

■本館は築150年以上! 日本最古の山岳温泉宿

 三斗小屋温泉の開湯は平安時代の1142年と言われている。難病を患った生島某という信心深い男が、夢に現れた大黒天の導きによって発見したという伝承が残っている。かつては山麓の板室からの谷川には橋が架かっておらず、3つの古谷を渡ることに苦労したことから「三渡古谷(さんとこや)」と呼ばれるようになったそうだ。その後、時が流れて、いつからかは定かではないが「三斗小屋」という表記が使われるようになった。

三斗小屋温泉は山の中の温泉地。現在は2軒の宿が営業している

 古くからの湯治場であった三斗小屋温泉に大黒屋がいつ開業したのかは、実はわかっていない。というのも、江戸時代末期の戊辰戦争で、宿の歴史を記した史料がすべて燃えてしまったからだ。

高根沢春樹(以下、高根沢)「戦場になったのは宿から1時間ほど下った宿場町(三斗小屋宿)だったのですが、会津藩士が潜んでいるのではないかということで、官軍が通過する際にあたり一帯の建物をすべて焼いていったそうです」

三斗小屋温泉 大黒屋の6代目主人、高根沢春樹さん

高根沢「史料が残っていないので、大黒屋が創業された年代は正確にはわかっていません。江戸時代後期だろうということは口承で伝わっており、さかのぼれる先祖までさかのぼると私が6代目になります」

 高根沢家はもともと黒羽藩の家老職を務めたこともある由緒ある家柄だったが、家臣が不祥事を起こしたため、その責を負って三斗小屋宿の管理者となったそうだ。現代でいうところの「左遷」である。その後、子孫たちが宿場からさらに奥地の三斗小屋温泉に目をつけて、温泉宿を構えたのが大黒屋の始まりだ。

 明治初期、江戸時代からの建物は戊辰戦争で焼失してしまうが、翌1869(明治2)年にすぐに再建。そのころ、近隣には大黒屋のほかに、屋、三春屋、佐野屋、生島楼(生島屋)の5軒の温泉宿が営業していた。しかし、山の中という不便な場所での営業ゆえだろう、1軒また1軒と転出していき、大正時代には大黒屋と煙草屋(1911年ごろに開業)の2軒を残すのみとなって、現在に至っている。

本館。1869(明治2)年に再建された建物を今も使っている
本館から渡り廊下を行くと別館がある

 春樹さんが6代目として大黒屋を継いだのは、2019(令和元)年のこと。それ以前は東京の会社や地元・那須塩原市の市役所で働いていた。

高根沢「先代の父が年齢を重ね、思うように体が動かなくなってきている姿を目の当たりにして、『そろそろ自分が跡を継がなきゃな』という気持ちになっていったんです。ただ、東京での会社勤めの経験しかない状態で、いきなり継ぐのは自信がなかった。そのため、まずは栃木に戻って平日は地元の市役所で働き、週末や繁忙期に宿を手伝いながら、徐々に仕事を覚えていきました」

■従業員自ら歩荷して、滋味豊かな食事を提供する

 大黒屋の一番の魅力は、やはり温泉だ。館内には檜造りの大風呂と岩風呂の2つがあり、どちらも源泉かけ流し。大風呂には大きな窓が設えられ、湯船につかりながら周囲の自然を眺め、吹き込んでくる涼やかな山風を浴びていると、心身ともに癒されていくのを感じる。

今夏、改修したばかりの檜造りの大風呂。湯船も広く、ゆったりと寛げる《写真提供:三斗小屋温泉大黒屋》

 客室はすべて個室仕様なので、家族や友人同士で気兼ねなくのんびりと過ごすことができる。また、食事は部屋までお膳とお櫃を運んでくれる昔ながらの旅館スタイルだ。

山の中の宿とは思えない、きれいに整えられた客室
ある日の夕食。お膳を部屋まで運んできてくれる

高根沢「お客様から時々『ここは旅館なのか、山小屋なのか?』と聞かれることがあります。温泉があり、個室に泊まれて、部屋で食事ができるところは旅館的ではありますが、一方で山の中であるため、すべてのサービスを街の旅館と同じようにすることはできません。その意味で山小屋的な部分も多分にあります。私の父は、旅館か山小屋かと聞かれると、いつも『ここは旅籠です』と答えていました。各地の宿場町にあった昔ながらの宿屋に近いのかもしれませんね」

 車が入れない山中でありながら、生鮮品をふんだんに使ったおいしい食事を食べられるのは、週に数回、従業員が食材を背負って歩荷(荷上げ)をしているからだ。歩荷ルートとしてメインで使っているのは、三斗小屋宿跡から登る約80分のコース。1回の歩荷で1人当たり30~40kgほどの荷物を背負っている。戦前までは馬を使って荷上げをしていたが、戦争が始まると飼料の確保が難しくなって馬を手放し、以後はずっと人力での歩荷を続けてきた。

戦前までは馬を使って荷上げをしていた。左の男性は、春樹さんの曾祖父《写真提供:三斗小屋温泉大黒屋》
歩荷の様子。背負子(しょいこ)に荷物をくくりつけて運ぶ《写真提供:三斗小屋温泉大黒屋》

高根沢「聞いた話によると、昭和のころは『米一俵背負えなければ、男として軟弱だ』と言われていたようです。一俵はだいたい60kgになります。自分がここを継ぐかどうか迷っていたとき、試しに60kgの歩荷をやってみたことがあるんです。結果として荷を上げることはできましたが、そのあと調理場で包丁を持つと腕がプルプル振るえてしまって。昭和の歩荷は大変でした(笑)」