今年の大河ドラマは『豊臣兄弟!』。秀吉・秀長は中国方面軍を任され、山陽、山陰のあちこちで対毛利戦を繰り広げてゆく。というわけで、毛利家の山城を紹介したい。織田vs毛利の争いには登場しないが、尼子家との「中国地方の覇者」を競っていた頃、最前線となった城だ。
広島県の西半分=かつての安芸国。広島空港が完成して以降、空の玄関口として知られる東広島市は、全国でも有数の日本酒の産地として有名で、今も酒蔵が立ち並ぶ。そんな長閑な地方都市に、戦国時代の大規模な山城があることはあまり知られていない。
その名は「頭崎城(かしらざきじょう)」。東広島市の中心である西条町の北東・高屋町にある。城が築かれたのは、標高504mの頭崎山の上である。今回は山歩きを兼ねて、頭崎城を攻城してきた。
■平賀家の御家騒動に毛利元就が介入
頭崎山の南西にある田園地帯から、頭崎城を望む。下から見る限り、何の変哲もない低山にしか見えない。裾野もなだらかで、おっとりしている。
だが、道路脇に立つ看板の縄張図を見ると、なかなかの規模だ。
広島県内の山城としては、毛利家の本拠地だった吉田郡山城に次ぐ規模だとか。そう聞くと俄然興味がわいてくる。
頭崎城を築いたのは、安芸国の領主であった平賀家。鎌倉時代の有力御家人・平賀家と同姓だが、系統はちがう。平賀家が安芸に領地を与えられ、当地にやってきたのは鎌倉時代のこと。
戦国時代になると、平賀家は周防国(現・山口県西部)の大大名・大内家の傘下に入り、乱世の生き残りをはかった。堅牢な頭崎城を築いて本拠地を移した当主の平賀弘保は、大内家の戦いに従って戦功を挙げ「鬼平賀」と呼ばれている。
ところが、山陰の尼子氏が台頭すると、大内・尼子のどちらにつくかで平賀氏は内部分裂してしまう。1540(天文9)年6月、父・弘保は大内方につき、尼子方についていた息子・興貞が頭崎城に籠る。そこに当時、大内家に従っていた毛利元就が攻め、落城となる。
その後、平賀家は毛利家に帰順し、戦国時代には重臣として活躍している。一族の中では、織田軍に大勝した第一次木津川口の戦いにも参戦した、平賀元相が最も有名だ。
■凸凹が絵になる畝状竪堀群
ふもとからの登山口もあるが、峠まで車道が走っていて、ある程度の高さまでは車で行けるのだ。とはいっても道幅が狭いうえ、舗装されていない砂利道もある。危険を避けるため、峠あたりのスペースに車を駐車し、ここからは歩いて登る。
10分ほど山道を登ると、駐車用の開けたスペースに出た。ここまで車で来れなくもないが、途中にも曲輪や竪堀などがちらほらあるので、やはり峠から徒歩が正解だった。
ここから先が、いよいよ城攻めの始まりだ。手始めに、南に進路をとる。進行方向左手は切り立った斜面になっている。とてもよじ登れそうにない。
一方、縄張図によれば、進行方向右手の斜面には、竪堀がいくつも並んでいるとのこと。よく見ると、たしかに地面が凹んでいる。竪堀は時間が経つとともに埋もれやすく、気づかずスルーしてしまうことも多い。ここはかなり明確。絵に描いたような竪堀が何本か連続している。
ただし、正面から見下ろす形だと写真にその迫力がわかりづらいので、敢えてサイドからカメラに収める。往時はこんな幅広い山道もなく、左手の急斜面の直下にこの竪堀群が接続していたのだろう。
■断崖の突端に立つ眺望抜群の曲輪
まもなく分かれ道に出る。城の中心部は左なのだが、まずは右へ。
少し下っていくと、開けた場所に出る。これは自然の地形ではなく、人工的に平らにした「曲輪」に違いない。ここには「煙硝の段」という名がついている。つまり火薬庫ということか。
曲輪内には、奈良の石舞台古墳を思わせる、巨石を積んだ古墳が目立つ。城があった時代からこの姿だったのではなく、発掘された岩を昭和時代に積みなおしたものらしい。あたりを見渡すと、インパクトのある巨岩がゴロゴロ転がっている。岩の出やすい地質なのが察せられる。
この曲輪は、半島のように突き出した形になっている。そのおかげで、南と西への見晴らしが良好だ。現在は木の枝が邪魔しているが、これらを刈れば城下を一望できる。敵の襲来に備えて見張り台が置かれていたことは間違いないだろう。