戦国時代の石見国(いわみのくに)と聞いて、すぐにその状況を思い浮かべられる人は、かなりの歴史好きの人でも稀ではないだろうか? 当時、銀の産出量が日本一ともいわれた石見銀山があったことぐらいは知っていたとしても。
現在の島根県西部にあたる石見。戦国時代には、益田氏、小笠原氏、吉見氏の三氏が三大勢力で、それぞれ、石見七尾城(益田市)、温湯城(川本町)、津和野城(津和野町 ※当時は三本松城)を拠点としていた。ちなみに石見七尾城のある益田市では、2024年秋に「全国山城サミット」も行われている。
「三大勢力」といっても、三氏のみで国内を三分していたわけではない。各地で小勢力が割拠していた。さらに石見銀山の支配権を狙って、隣国から大勢力が度々攻めよせてくる。周防・長門(現・山口県)の大内氏、出雲・伯耆(現・島根県東部/現・鳥取県中西部)の尼子氏、安芸・備後(現・広島県)の毛利氏。
今回取り上げる周布城(すふじょう)も、そんな小勢力の居城のひとつだった。
■堀切? 自然地形? 謎を抱えつつ城内へ
周布城、別名・鳶巣(とびがす)城が位置するのは、日本海へ流れこむ周布川の河口から、約1kmばかり遡った右岸。比高70mのこんもりとした小山を要塞化している。

周布城は元々、鎌倉時代、元寇に備えて築かれた石見十八砦のひとつとされる。
城主の周布氏は、石見三大勢力のひとつ益田氏と関係が深く、1455(享徳4)・1456(康正2)年に同盟を結んで以降、協力関係を築いてきた。1570(元亀元)年、毛利氏に攻められ落城。ちなみにこのとき城主の周布元兼は不在で、家中の反毛利派が反旗を翻したため、毛利氏に攻められたという。以後、元兼は毛利氏の一族・吉川氏に従うも、1578(天正6)年、尼子勝久や山中鹿介を攻めた播磨・上月城の戦いで戦死している。
城への登城口は、南西麓の聖徳寺の裏に広がる墓地から。

斜面に付けられたつづら折れの道をのぼってゆくと、尾根に取り付ける。そして木立の中へ。



木立の合間からこぼれてくる陽光を浴びながら、ものの2~3分も歩くと、さっそく城の遺構らしき地形が見えてきた。山道は直進もできるが分岐があり、尾根上に上がれそうだ。分岐上に明らかな凹みが見える。尾根上へ。

縄張図と目の前の地形を見比べてみる。図の右下に伸びる尾根を進んでいるはずなので、右下端に描かれた堀切だろうか? しかし、その右脇にある竪堀や、左に並ぶ竪堀群らしきものは見あたらず……。
山道を歩いていると、距離感がつかめなくなってしまうことが多い。自分の場合、やたら写真を撮りながらの牛歩の進軍なので(大抵の場合、一般的な所要時間の2~3倍かかる)、余計にそうなりがち。城への期待も相まって、「もう城域だよね」という思い込みも生まれがち。本当はもっと先だった、という経験は、山城を歩いていて枚挙に暇がない。
というわけで、堀切か否か判断つかず首をひねりつつ、先へ進む。
※比高(ひこう):麓から城の最高地点までの標高差
※堀切(ほりきり):尾根に入れられた鋭いV字状の切れ込み

■落差数mの切岸を這うように登る
さらに数分進んでみると、疑問はあっさり氷解した。少し幅の広がった尾根を断ち切る堀切が目の前に。右手には竪堀も従えている。これが縄張図上の右端の堀切で間違いないだろう。


ただしこちらは、土のみの堀切。一方で最初に見た方の凹みには、大小さまざまな石が転がっていた。石積や巨石の配し方で人工的に築いた堀切のようにも見えたのも事実。そうすると縄張図のさらに先に、もうひとつ堀切を書き込むべきなのか。
こういう“城跡推理”は、山城歩きの醍醐味のひとつ。山登りの疲れを忘れさせてくれるし、いつしか築城者視点で「自分ならどうするか」を考えている。結局、正解はなかったりするのだが、それはそれでいいのだ。
そして堀切の向こうには、巨壁のような切岸。気合を入れ直し、這うようにして慎重に上る。

なんとか無事に、切岸上の曲輪へ到達。そして振り返るとそこに──。

落差数mを実感。転がり落ちたら大変だ。たった今、自分の足で登ってきただけにそれをリアルに実感できる。これもまた、山城歩きの醍醐味。城を体感できるひととき。
その先の二つの曲輪は木立に覆われてはいるが広大。抜けるともうひとつ、堀切に出くわす。その向こう側はまたもや切岸が行く手を阻む。登らねば主郭にはたどりつけない。
※切岸(きりぎし):人工的に削り急角度にした崖
