中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。

 第10回にご登場いただくのは、穂高の山々に囲まれた涸沢カールに建つ『涸沢小屋』の芝田洋祐さん。槍・穂高連峰は日本のアルピニズムの発祥の地であり、涸沢は古くから登山基地として多くの登山者で賑わってきた。そんな歴史があるからこそ、芝田さんは「山小屋の文化を守り、次の世代に伝えていきたい」と語る。

■登山案内人組合が造った山小屋

 昭和初期、涸沢での本格的な山小屋建設に最初に着手したのは、上高地登山案内人組合だった。建物が完成したのは1939(昭和14)年で、当初は組合員の中から入札で管理人を決めていた。しかし、管理人が定期的に入れ替わるのは、経営的にやりづらかったのだろう。1958(昭和33)年、組合員の一人だった奥原茂樹(現社長・芝田洋祐の義理の祖父)が営業権を譲り受け、涸沢小屋は個人経営の山小屋となる。

上高地登山案内人組合は、なぜ涸沢に山小屋を造ろうと考えたのでしょうか?

芝田洋祐さん(以下、芝田)「穂高連峰は大きな山で、上高地からだと距離も標高差もありますから、涸沢に登山基地となる場所が欲しかったんだと思います。小屋の建設地として、現在の北穂南稜基部を選んだのは、広大な涸沢カールで雪崩の直撃を避けられる唯一の場所であり、ライフラインである水場が近くにあったからです」

 「現在の涸沢小屋が建っている場所には、その昔、猟師が休憩や雨風をしのぐために使っていた掘っ立て小屋があったそうです。また、小屋の場所とは違いますが、登山者が寝泊まりできる岩小屋が近くにあったことが、文献などから知られています」

小屋の背後には高さ50mの岩壁がそびえる。この岩壁が小屋を雪崩から守ってくれている《写真提供:涸沢小屋》

組合から奥原茂樹さんが経営権を譲り受けたのは?

芝田「茂樹は、組合の中心的存在であった村上守さん(西穂山荘創設者)の実兄にあたります。詳しい話を聞いたわけではないのですが、守さんとしては身内にやってもらいたいという考えがあったのではないでしょうか。しかし、茂樹は小屋を始めた翌年(1959/昭和34年)に急逝してしまい、当時まだ20代だった息子の広次が経営を引き継ぐことになります」

芝田さんから見て、山小屋経営者としての広次さんはどんな方でした?

芝田「島々の生まれで、若いころから歩荷をしたり、伐採や炭焼きなどの山仕事をしていましたが、根っからの山好きというわけでもなかったようです。私が小屋で働き始めたころは『田舎の親父さん』という雰囲気でした。小屋のことを取り仕切っていたのは支配人の新井(浩夫。広次の義弟)さんで、広次は何事にも『いいわ、いいわ』という鷹揚な人でしたね」

芝田さんが山小屋に入ったのは?

芝田「私が初めて涸沢を訪れたのは1999(平成11)年になります。そのころの私はコンピュータメーカーに勤めていた普通の会社員で、登山も趣味程度。山小屋で働くなんてことは考えてもいなかったのですが、縁あって広次の長女、綾子と結婚し、2001(平成13)年から小屋の仕事を手伝うようになったんです」

涸沢小屋の現代表の芝田さん

■従業員同士で意見を出し合いながら

 「うちの小屋の特徴は、従業員たちがそれぞれ意見を出し合いながら運営していることなんです」と芝田さん。かつて小屋で働いていた元従業員との結びつきも強く、忙しい時期には手伝いに来てくれるという。そうした従業員同士のフラットな関係性は、広次から芝田へと引き継がれてきた“涸沢小屋らしさ”だと言える。

これまで山小屋を営んできて、印象に残っている出来事は?

芝田「私にとっては、小屋で働き始めた最初の年が最も印象に残っています。というのも、2001(平成13)年は涸沢小屋の全面改築をした年で、私が山に入ったときには小屋の建物がなかったんです。そこから3か月ぐらい、みなで大工工事をして海の日から営業を始めたのですが、新しい山小屋造りにイチから参加できたのはありがたいことでしたね」

 「そのとき建て直した新しい小屋は3代目で、どういう建物にするかという基本的なコンセプトはほとんど新井さんが考えたようです」

夏の穂高の山々と涸沢小屋。小屋の背後にそびえるのが北穂高岳

広次さんは新井さんを信頼し、建物の設計まで任せていたんですね。

芝田「涸沢小屋では先代の広次のころから、何をするときにもオーナーのトップダウンで決めるというより、従業員たちがそれぞれ『ああしよう』『こうしよう』と考え、互いに意見を出し合いながら、小屋の運営を進めていたんです。そうした雰囲気は、私が社長になってからも大事にしています」

 「自分たちで考え、決めているという意識が強くあるからでしょう。従業員一人ひとりが小屋に対して『自分たちの山小屋だ』という気持ちを持って働いてくれていることは、そばにいてすごく感じます。人には恵まれていて、10年以上も働いてくれている従業員が2人います。元従業員との結びつきも強く、みなさん小屋をやめてからもよく顔を出してくれ、春の小屋開けの除雪や秋の紅葉シーズンなど忙しい時期には手伝いにも来てくれます。お互いの関係性がフラットで、アットホームな雰囲気は、涸沢小屋の大きな特徴のひとつだと言えます」

涸沢小屋には何度か泊まらせてもらっていますが、宿泊客と従業員の距離も近い印象を持ちました。

芝田「お客さんにとっても涸沢小屋が『自分の山小屋』だと感じてもらえたらいいなと思っています。そのために私たちが心がけているのが、お客さんも山を一緒に楽しむ『仲間』だと考え、接することでしょうか。もちろん山小屋はサービス業で、お客さんと従業員という関係性はありますが、それ以上に山が好きな仲間同士として、みなさんが山を安全に楽しめるように私たちができるサポートをしていく。そうした気持ちで日々接客しています」

今の山小屋で、従業員のアイデアが元になっている設備やサービスはあるんですか?

芝田「いろいろあります。たとえば、今では涸沢小屋の名物となっているジョッキパフェも従業員が考えたものです。うちの小屋では元々、生ビールやソフトクリームを出していたのですが、ビールジョッキでパフェを作ったら見栄えもするし、お客さんも喜んでくれるんじゃないかということで作ってみたのが始まりなんです」

涸沢小屋名物のジョッキパフェ