中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。
第9回でお話を伺ったのは、笠ヶ岳の北側、山頂直下の標高2,820mに建つ「笠ヶ岳山荘」の滋野守さん。「特別なことはせず、いつも通り」をモットーに、登山者が気持ちよく過ごせる山小屋を目指してきた。
■温泉組合の有志が再興した山小屋
笠ヶ岳に山小屋が建設されたのは1932(昭和7)年ごろのこと。当時は上宝村の村営で、3間×2間半(約5.4m×4.5m)の小さな建物だった。その後、戦争で管理が行き届かなくなり、荒廃してしまう。再建の気運が高まったのは、戦後しばらく経った1955(昭和30)年ごろ。担い手となったのは栃尾の温泉組合の有志で、そのうちの一人が現代表の滋野守さんの父・清さんだった。
なぜ栃尾の温泉組合が山小屋を再興することになったのですか?
滋野守さん(以下、滋野)「親父からは詳しい話を聞いていないのでわかりませんが、きっと村から話が持ち込まれたんじゃないでしょうか」

1956(昭和31)年の秋に再建工事は完了し、笠ヶ岳山荘はスタートしました。その後、どのような経緯で清さんが個人で経営を担うことに?
滋野「再建直後の冬に雪の重みで屋根の半分がつぶされてしまい、組合の年長の人たちは山小屋から手を引き、若手だった親父ともう一人のメンバーが『お前らは若いから』と任されることになったようです。しばらくして、そのもう一人の方も山小屋を離れ、親父が個人で経営するようになりました」
守さんは高校卒業後に山荘に入られたんですよね?
滋野「僕が山荘に入ったのは、高校を卒業してすぐの1974(昭和49)年です。親父はまだ元気でしたが、麓の民宿(栃尾荘)の方に専念して、山には小屋開けと小屋閉め、夏の最盛期にたまに上がってくるだけになりました。山荘のことは僕がもっぱら担うようになったんです」
若くして山荘の業務を引き継ぐにあたって、お父さまから教わったことは?
滋野「親父からは、登山道の草刈りや整備、小屋のまわりの石積みのやり方などは教えてもらいましたが、『お客さんにこうしろ、ああしろ』ということは何も言われなかったですね。ですから、代々の教えとかはないんです」
10代で山小屋に入って、ご苦労も多かったのでは?
滋野「初めてのことばかりでしたからね。1回や2回、親父から教えてもらったところで、ぜんぜん覚えられないですよ。石積みも、どんな石をどのように組み合わせれば崩れにくいのか、はじめはわからなかったですし。道直しなんかもそうです。経験がなかったので、実際にやってみて、ああでもない、こうでもないと試行錯誤しながら、覚えていきました。また、一緒に働くアルバイトたちはみんな年上だったので、そこも苦労しましたね」
高校卒業後すぐ、山小屋を継ぐことに抵抗はなかった?
滋野「それはありませんでした。うちは山小屋だけじゃなく、民宿もやっていて、中学生のころから『いずれは自分が継ぐことになる』と考えていましたから。よそへ行こうという発想はまったくなかったですね」
