■母・圭子が大切にした、登山者との「一期一会」
義親のあと、1989(平成元)年に山小屋を引き継いだのは、娘の圭子だった。そのころ、女性の山小屋経営者は少なく、「男性社会のなかですごく苦労したんじゃないか」と梢は語る。それでも圭子は、持ち前の意志の強さと女性ならではの細やかさで、蝶ヶ岳ヒュッテを人気の山小屋へと育て上げていく。
梢さんから見て、山小屋経営者としての圭子さんはどんな方でしたか?
梢「母は『一期一会』という言葉を大切にしていました。蝶ヶ岳ヒュッテの食堂に『一期一会』と書かれた木製看板が掲げられているのもそのためです。登山者は旅人であり、その日山小屋に泊まった方との出会いは最初で最後かもしれない。だからこそ、そのお客さんが蝶ヶ岳に登ったことやヒュッテに泊まったことを良い思い出として持ち続けられるよう、最善を尽くすのが山小屋の仕事だと、母は常々言っていました。そうした考え方は私もすごく共感できて、自分自身が経営に携わるようになってからも大事にしています」

圭子さんは、夏期診療所の開設にも情熱を注いだそうですね。
梢「1990(平成2)年に大滝山荘でお客さんが亡くなる事故があったんです。そのとき、母はきっと、山小屋は宿泊営業をしているだけじゃダメなんだと痛感したのではないでしょうか。けが人や急病人が出たとき、『医者がいない』『医療物資もない』『救助ヘリも呼べない』となると、山小屋の人間にできることは休ませて、見守ることぐらいしかありません。そのことに強い危機感を抱いたんだと思います。名古屋市立大学医学部の方々によって『蝶ヶ岳ボランティア診療所』が開設されたのは1998(平成10)年のことです」
「余談ですが、母と名古屋市立大学の先生がつながったのには、実は私が関わっていて。2、3歳のころ、私はある病気で名古屋市立大の大学病院に入院し、たまたま同室になったのが市立大の先生の娘さんだったんです。病室で、その先生に診療所のことを相談したところ、先生がもともと山好きだったこともあり、ほかの先生や大学に働きかけてくれて設立に至ったそうです。不思議な縁ですよね」

蝶ヶ岳ヒュッテはおいしい食事も人気です。みそ汁に自家製の手作りみそを使うようになったのも圭子さんの代からですよね?
梢「母がよく言っていたのは、『(山小屋の食事は)ごはんとみそ汁がおいしければ、何とかなる』ということで。人によっておかずの好き嫌いはあるかもしれませんが、日本人であれば、ごはんとみそ汁は食べられますよね。ごはんで糖質を、みそ汁で塩分を摂取できれば、最低限の栄養補給はできます。だから、『ごはんとみそ汁はおいしく食べてもらおう』というのが母のモットーでした」
「また、せっかく蝶ヶ岳に来てくれたんだから、なるべく地元のものを食べてもらいたいよね、ということにも母はこだわっていました。お米も大豆も安曇野近辺で作られたものを使っているのはそのためです。みそ作りは今も毎年やっていますし、これからも変えずに続けていきたいですね」

2019(令和元年)年、圭子さんが病気で56歳という若さで亡くなり、翌年から梢さんが経営を引き継ぐことになりました。急な話で、戸惑いもあったのではないかと……。
梢「それまで私は別の仕事をしていたのですが、いよいよ差し迫ってきたときに母から『来年からどうだろう』という話をされまして。うちは二人姉妹で妹もいましたが、まだ大学生だったので、私が山小屋を引き継ぐことになったんです」
「私は母のようなバイタリティもないし、外に向かってエネルギーを爆発させていくようなタイプではないのですが、自分にできることをやっていこうと。幸い、妹も大学卒業後に小屋に入ってくれて。それぞれ、性格も得意なことも違うので、今はお互いの持ち味を生かしながらやっているという感じです」