中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。
第6回にご登場いただくのは、北アルプス南部の山小屋で唯一通年営業をしている西穂山荘の3代目・村上文俊さん。さまざまな苦労がありながら、なぜ西穂山荘は冬の営業を続けてきたのだろうか。
■山好きで、生涯現役を貫いた初代・村上守
西穂山荘は1941(昭和16)年、安曇村(現・松本市安曇)島々出身の山案内人・村上守によって創設された。山小屋建設のきっかけは、穂高連峰のガイドをしていたとき、奥穂高岳山頂から西穂高岳へと続く峻険な岩稜を目にして、その圧倒的な景観に魅了されたためだ。守はその後、半世紀以上にわたって山小屋に入り、山と登山者を見守り続けた。


西穂山荘は、新穂高ロープウェイができる前から通年営業をしていますよね。初代・守さんはなぜ1年を通じて山小屋をやろうと?
村上文俊さん(以下、村上)「なぜ冬も小屋を開けることにしたのか、詳しい話は祖父から聞いていません。私が思うのは、祖父はとにかく山が好きな人で、それで通年開けていたんじゃないかということです。また、上高地からも新穂高からも登りやすい場所にあり、そうした立地的な理由もあったのかもしれません」
1970(昭和45)年に新穂高ロープウェイの運行が開始されて、山麓と西穂山荘はさらに「近く」なりました。
村上「飛騨側からのアクセスが劇的によくなったことで、宿泊者はもちろん、日帰り登山者や観光客も急増したと聞いています。山荘の建物は1962(昭和37)年に120坪の広さに新築していましたが、ロープウェイによる登山者の急増に対応するため、1973(昭和48)年には100坪の新館を増設しました」
新穂高ロープウェイの運行は、山荘にとっても大きなターニングポイントだったんですね。
村上「そう思います。山荘が建っているのは標高2,367mで、ちょうど森林限界に位置しています。山荘から15分ほど登った丸山からの展望は素晴らしく、西穂高岳、前穂高岳、明神岳など北アルプスの雄大な山々が一望できます。そんな場所までロープウェイを使えば2時間もかからずに登れてしまうのですから、登山者を惹きつけますよね」


初代の守さんは、半世紀以上も山に入られていたとお聞きしました。文俊さんから見て、守さんはどんな方でしたか?
村上「祖父は1994(平成6)年、86歳で亡くなった年のゴールデンウィークまで山小屋に入っていました。私が山小屋に入ったのは1992(平成4)年で、祖父と山で過ごしたのは1年半ほどです。山にまつわるあらゆることに精通し、お客さんともいつも山の話をしていました。時間があれば山を歩き、ついでにゴミ拾いなんかもしてきて。常に山のこと、登山者のことを考え、生涯現役を貫いた人でした」
山とともにある人生を生き抜いた方だったんですね。

■火事からの再建と、突然の代替わり
西穂山荘の歴史を振り返ったとき、文俊さんが「最も大変だった出来事のひとつ」として挙げてくれたのが、1990(平成2)年に起こった火災事故である。炎は大きく燃え広がり、客室のあった母屋は全焼。さらにその再建の過程で、文俊さんの父親で2代目の健一さんが病に倒れてしまったのだ。

火災の原因は何だったのですか?
村上「小屋では当時、薪ストーブを使っていて。薪を積んでいた場所とストーブが近すぎたために、薪に引火してしまったようです。時期は10月ごろでした」
「その火事で、宿泊棟として使っていた母屋は全焼し、かろうじて焼け残ったのは小さな発電機小屋と診療所の建物だけでした。もちろん営業はできないので、その年の冬から休業して、翌春から再建工事を始めました。1991(平成3)年10月にまずは別館が完成し、秋から営業を再開。本館の工事は翌年の春からスタートして、夏山シーズン直前の7月下旬のオープンを目指して急ビッチで作業を進めていました。しかし、オープン1か月前の6月に親父(2代目・健一さん)がくも膜下出血で倒れてしまって……」


そのころ、文俊さんは山小屋に?
村上「まだほかの会社でサラリーマンをやっていました。『いつかは山小屋に』とは考えていましたが、親父が倒れたために急遽戻ることになったんです。幸い親父は障がいが残ったものの一命はとりとめて、『お前のやりたいように自由にやっていいから』と後押しをしてくれて。祖父が山にいたので現場のことは祖父に任せて、私は営業許可の手続きや工事の進み具合の確認など山小屋再開のためにやらなければならない仕事に奔走しました。とはいえ、右も左もわからない中でのことだったので、何もかもが大変でしたね」
