中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。
第7回は、槍・穂高連峰の美しい山並みを一望できる、広々とした稜線に建つ蝶ヶ岳ヒュッテを経営する若き主人、中村梢さんに話を聞いた。母である先代・圭子さんから受け継いだ「一期一会」という言葉を胸に、「楽しいだけじゃなく、学びもある山小屋」をめざして日々試行錯誤を重ねている。
■蝶ヶ岳からの絶景に惚れ込んだ祖父・義親
中村家として最初に山小屋に携わったのは、現主人・中村梢の曾祖父である中村喜代三郎だった。大正時代、中房温泉の百瀬家の分家から、代々庄屋をしていた中村家に養子に入った喜代三郎は、当時百瀬家が持っていた殺生小屋(現・殺生ヒュッテ)や西岳小屋(現・ヒュッテ西岳)の管理を任された。その後、1932(昭和7)年ごろ、小倉村(現・安曇野市三郷小倉)が所有していた大滝小屋(1925/大正14年に地元の有志によって建設。現・大滝山荘)を買い取り、自らも本格的に山小屋経営に乗り出したのだった。
喜代三郎さんはなぜ、大滝小屋を買い取ったのでしょうか?
中村梢さん(以下、梢)「大正から昭和初期の登山ブームで、殺生小屋や西岳小屋は繁盛し、仕事も面白かったのでしょう。庄屋として時間にも生活にも余裕があったため、自分でも山小屋を持ちたいと考えたのではないでしょうか」

大滝山荘のある大滝山は、今では訪れる登山者が少なそうですが、当時は違ったんですか?
梢「麓の小倉村から鍋冠山、大滝山へと至る道は、江戸時代に飛騨新道として開かれ、播隆上人(槍ヶ岳を開山した僧)が槍ヶ岳を登るときにも使っています。そのころは牛や馬も通れる道だったようです。その後、街道としては廃道になりましたが、地元の人が小屋を建てるぐらいですから、人の往来はそれなりにあったのだろうと思います」
「喜代三郎はまた、戦前から戦後にかけての一時期(1940年代ごろ)には徳本峠小屋の管理も担っていました。大滝山荘と徳本峠小屋の行き来ができるように開いたのが、中村新道なんです」

戦後、蝶ヶ岳ヒュッテを造ったのは2代目の義親さんですよね。義親さんはなぜ、蝶ヶ岳に新たな山小屋を?
梢「当時の蝶ヶ岳は、三股からの登山道はなく、多くの登山者が行き交う主要なルートではありませんでした。にもかかわらず、祖父が蝶ヶ岳のそばに山小屋を建てたのは、そこからの展望に一目惚れをしたからです。『槍ヶ岳から穂高連峰までを一望できる、すばらしい場所だ!』と惚れ込んで、猛然と山小屋を造り始めたと聞いています。1956(昭和31)年から工事を始めて、開業したのは2年後の1958(昭和33)年です」


槍・穂高連峰の大パノラマを望める蝶ヶ岳は、山小屋の立地としては最高です。ほかの山小屋経営者たちも目をつけていたんじゃないでしょうか?
梢「当時のことはわかりませんが、みなさん槍や穂高の方に目が向いていたので、蝶ヶ岳に山小屋を建てようという人はいなかったんでしょうね。祖父は新たな道づくりにも力を注ぎ、60年代半ばに三股まで林道が延長されると、数年がかりの大工事をして三股と蝶ヶ岳を結ぶ蝶ヶ岳新道を整備しました」