日本初の国立公園の一つとして1934(昭和9)年に誕生した「中部山岳国立公園」は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが山登りや自然との触れ合いを楽しんできた。そんな日本屈指の山岳公園の歴史を振り返ったとき、重要な役割を果たしてきたのが山小屋である。山小屋は、登山者を迎え入れ、食事や憩いのひとときを提供するだけではなく、登山道の維持・補修や自然環境保全、遭難者の救助など、実に多岐にわたる仕事に関わってきたからだ。
この連載では、北アルプスのそれぞれの山小屋の歴史をたどり、そして「山と人をつなぐ場所」としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。第2回は、中部山岳国立公園を代表する名峰・槍ヶ岳の山頂直下にある槍ヶ岳山荘をはじめ、槍・穂高連峰で5つの山小屋を営む「槍ヶ岳山荘グループ」の4代目・穂苅大輔さんに話を聞いた。
■「商売」のためではなく
1917(大正6)年、長野県松本市で竹細工商店を営む穂苅家の一人息子だった穂苅三寿雄は、同じ町内の山田利一(のちの常念小屋創業者)らとともに、北アルプス南部初の営業小屋として「アルプス旅館」(のちの槍沢小屋。現・槍沢ロッヂ)を建設。その後、1921(大正10)年には赤沼千尋(燕山荘創業者)と大槍小屋(現・ヒュッテ大槍)を、1925(大正15)年には槍ヶ岳の穂先の直下に肩ノ小屋(現・槍ヶ岳山荘)を開業した。
初代・三寿雄さんはなぜ、槍ヶ岳へのルートの各所に山小屋を築いていったのですか。登山道の整備が進み、山小屋が商売になるという狙いがあったのでしょうか?
穂苅大輔さん(以下、大輔)「父や祖父から詳しい話を聞いたわけではないので、三寿雄の考えはこうだったと明確にお答えするのは難しいというのが正直なところです。自宅のあった六九町からは槍の穂先がわずかに望め、槍ヶ岳に対してはずっと憧れを抱いていたようです。初めて登ったのは1914(大正3)年、23歳のとき。その後、これから山を登る人たちのために山小屋を作ろうと一念発起して、同じ町内の仲間たちで出資をして最初の山小屋、槍沢小屋を建てたんです」
「ただ、その時点では、山小屋は商売になるとか、そういう考えはなかったと思います。現に槍沢小屋の利用者は初年度で200人程度と少なかったうえに、物資の荷上げや修繕費などでお金は出ていくばかり。経営としてはまったく成り立っていなかったですから。出資した仲間は当初10人ほどでしたが、どんどん脱落して、最終的には三寿雄と山田利一さんの2人しか残らなかったそうです。写真を撮るようになって、アルバムや絵はがきをおみやげとして売り始めたのも、山小屋の赤字を補填するためだったと聞いています」
儲からないのに続けたのは、よほどの思い入れがあったんでしょうね。
大輔「将来的には仕事になるかもしれないという思いはあったのかもしれませんが、最初のきっかけはあくまでも『山が好き』『山と深く関わりたい』という純粋な気持ちや、新しいことをやってみたいという冒険心からスタートしたのではないでしょうか」
穂苅家と山小屋のこれまでを振り返ったとき、今につながる転機を挙げるとしたら?
大輔「初代三寿雄から2代目の貞雄、3代目の康治へと引き継がれていく中で、それぞれが時代に合わせて山小屋を変革してきたのかなと。ですので、代替わりがそのままターニングポイントになっているように思います」
「貞雄の時代は戦後の登山ブームと重なり、増加する登山者を受け入れるため、山小屋の増改築を急ピッチで進めていきました。元は避難小屋のような小さな建物だった槍ヶ岳山荘は、貞雄の代になって現在の規模にまで拡張されたんです」
「平成に入って社長となった父・康治は、それまでの17年間は総合商社で働いていたこともあり、一般社会で培った経験や知識を積極的に山小屋経営に持ち込みました。たとえば、そのころ普及し始めていたインターネットをいち早く導入して、山小屋とふもとの事務所などをつなぐネットワークの構築やライブカメラ事業なども始めています。現地スタッフによるブログを通じた情報発信も、今ではどこの山小屋もやっていますが、うちは30年近く前からやっているんです」