■“最大の試練” 山荘の再建とスキー場開発

1934(昭和9)年に完成した日本初の山岳ホテル「白馬山荘」の前に並ぶ登山者たち(写真提供:白馬館)

 初代として山小屋経営の礎を築いた貞逸だったが、1926(大正15)年に自動車事故により37歳という若さで急逝する。しかし、その進取の気性は、貞逸の下で働いていた下川富男(貞逸の妻きんの甥)や、娘婿の松沢恒久に引き継がれる。

 富男の時代、白馬頂上小屋(現・白馬山荘)や白馬鑓温泉小屋の増設、栂池小屋(現・栂池ヒュッテ)や唐松小屋(現・唐松岳頂上山荘)の新設などを相次いで実施。1934(昭和9)年、ダブルベッドの特別洋室、読書室、医療室、ガス灯照明などを完備した二階建ての新館が完成した際には「白馬山荘」と称して、日本初の山岳ホテルというコンセプトを打ち出した。

 また、戦後に経営の指揮を取った恒久は、五竜小屋(現・五竜山荘)を新たに建てて山小屋の数を増やすとともに、栂池でスキー場の開発にも乗り出したのだった。

恒久さんは、山小屋のみならず、1958(昭和33)年からスキー場の開発に着手します。娘婿で血のつながりはなかったものの、松沢家の「事業家」のDNAを受け継いでいますね。

貞一「父が栂池の開発に乗り出したのは、地元・親の原の皆さんから『スキー場を作ってほしい』と頼まれたためでした。ただ、この時代、白馬館としては大変な時期でもあったんです。スキー場開発を始めた翌年の1959(昭和34)年、火災で白馬山荘の建物が1棟のみを残してすべて焼けてしまったんです。そのため、栂池の開発と白馬山荘の再建を同時に行わなければならなくなってしまって……。父にとって、まさに最大の試練のときだったと思います」

 「それでも父は踏ん張って山荘の再建を急ピッチで進め、1962(昭和37)年の夏山前には第1新館ができて営業を再開。翌年には第2新館も完成し、再建前よりも多くの登山者を収容できるようになりました。また、スキー場として発展した栂池高原は、開発前には家が一軒もない場所でしたが、現在は小谷村で最大の観光地となりました」

恒久さんは、白馬館の経営だけではなく、長野県の県議会議員もされていたと。

貞一「それも白馬村や小谷村の人たちに推されての出馬でした。とはいえ、父にしてみたら、自らの人生の集大成としての意味もあったのではないかと想像します。村外から婿として白馬に来て、山小屋やスキー場の経営を通じて地域の発展に貢献してきました。そうした仕事の最終章として県会議員があったのではないかと」

 「長野冬季オリンピックの招致活動も一生懸命にやっていました。けれども、オリンピック開会式の5日前に亡くなってしまい、本番は見られなかったんです」

あのときの日本中の盛り上がりはものすごかったですから、恒久さんにはぜひ見届けてもらいたかったですね……。