日本では多くの人々がさまざまな目的やスタイルで登山を楽しんでいる。そのルーツを探っていくと、およそ100年前の「大正登山ブーム」が大きなターニングポイントになっている。当時、鉄道・バス路線の新規開通、山案内人組合の設立、ガイドブックの流通など、登山家や探検家ではない一般の人たちが山を楽しむための環境が急速に広まり、人々を山へといざなった。昭和初期の1934(昭和9)年には、北アルプス一帯が日本初の国立公園の一つとして「中部山岳国立公園」に指定されている。

 山小屋の開業が始まったのもこの時代だ。今も昔も山を訪れる登山者を迎え入れ、食事や憩いのひとときを提供してくれる山小屋。この連載では、それぞれの山小屋のこれまでの歩みを振り返りながら、「山と人をつなぐ場所」としてこれからどのような未来を思い描いているのかをまとめていきたい。第1回は、明治時代に日本で最初の営業小屋として開業した「白馬山荘」などを営む、白馬館の松沢貞一社長とその長男・松沢英志郎さんに話を聞いた。

■「事業家」としての顔を持つ初代・貞逸

明治時代後期、開業当時の頂上小屋  ※白馬山荘の前身(写真提供:白馬館)

 1905(明治38)年、現・白馬村の「山木(やまき)旅館」(白馬館の前身)の当主だった松沢貞逸は、白馬岳直下にあった測量用の石室の使用許可を取得。翌1906(明治39)年、岩室を改造し、山小屋としての営業を始めた。これが白馬山荘の歴史の始まりである。

白馬山荘初代の松沢貞逸さんは、もともと旅館を営んでいたんですよね?

松沢貞一さん(以下、貞一)「旅館を始めたのは貞逸の父親の直次郎で、1890(明治23)年に開業しています。その後、直次郎は1898(明治31)年に亡くなり、一人息子だった貞逸が家督相続して当主になったのですが、彼は当時まだ9歳でした。白馬岳の石室の使用許可を得たのはその7年後、16歳のときになります」

松沢貞逸。日本で最初の山小屋を興した(写真提供:白馬館)
白馬館の現社長・松沢貞一さん。貞逸の孫にあたる

貞逸さんが10代半ばで山小屋をやろうと考えたのは、なぜだったのでしょう?

貞一「貞逸が山小屋を始めた理由は、本人が何も書き残していないので、正確なところはわからないんです。11歳で初めて白馬岳に登ったときの感動があったのか。調査のために白馬岳をよく訪れていた植物学者や学校の先生から助言されたのがきっかけだった、という話もあります」

 「ただ、貞逸の業績を振り返ると、事業家としての目線が常にあったと思うんです。彼は山小屋の主人になりたかったわけではなく、この地域に産業を興したかったんじゃないかと」

たしかに、事業家という観点から見ると、貞逸さんがやってきた「山小屋以外のこと」も腑に落ちます。

貞一「そうなんです。たとえば、そのころ松本~大町間の鉄道が開通したのですが、貞逸は1915(大正4)年に大町以北の乗合馬車の営業を始め、1922(大正11)年にはフォード車を2台購入して乗合自動車業を立ち上げています」

 「また、山木旅館のすぐそばの川の流れを利用して製麺業や精米業、さらには水力発電まで行って、旅館の軒先に村で最初の電燈を灯したそうです。初めて見る自動車に驚いた農耕馬が暴れたりして地元住民から苦情が寄せられたときには、サーカスを呼んで村人に無料公開したり、松本の飛行士に頼んで村の上空でアクロバット飛行をやってもらったりもしています。大正時代後期、蕨平(白馬村の東山)でスキー講習会を開催したときには、その費用を貞逸が支援したとも聞いています。進取の気性に富んだ人だったのでしょう」

 「毎年5月末に開催されている白馬の開山祭は『貞逸祭』と呼ばれています。現在、白馬は国際的な観光地になっていますが、その原点を貞逸が作ったと地元の人たちから評価されているんです」

大正10年頃、白馬館の前に停まるフォード。フォードは東京で購入し、その車で東京観光をしたあと、村に凱旋したという逸話も残る(写真提供:白馬館)