■忠臣蔵のふるさと「赤穂大石神社」と「赤穂城」
赤穂の名を全国区にしたのは「忠臣蔵」と言われている。この事件のポイントは二つ。一つは「元禄14年、播州赤穂藩の3代藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が江戸城で、上官に当たる吉良上野介(きらこうずのすけ)を斬りつけ、けがを負わせたため、浅野内匠頭が切腹させられたこと」。
もう一つは「この切腹に異を唱えた、浅野内匠頭の家臣・大石内蔵助ら47義士が元禄15年の夜、吉良の屋敷に討入りし、主君の恨みを晴らすとともに、幕府の失政に一矢を報いたこと」。その後、義士たちは「武士の最高の名誉」として、切腹した。
この47人の赤穂義士を祭るのが「赤穂大石神社」だ。鳥居の前後には忠臣蔵リーダーの大石ら47義士の実物大の石像が向き合うようにずらりと並び、その迫力が観光客の目を引く。義士の人柄を表すような個性的なポーズのものもあり、眺めているとほほえましい気持ちにもなれる。
また、「赤穂大石神社」の近くにある国史跡の「赤穂城跡」も人気の観光スポット。「日本100名城」にも選ばれ、庭園は国の名勝に指定されている。
「赤穂城」は1648年に築城された。天守台は築かれたものの、天守が建造されなかった城で、江戸時代の城郭の中で比較的新しい。
一般的な近世の城は直線を基調とし、角をもつ形に築かれているが、赤穂城は随所に曲線を描く石垣が見られ、敵が進軍しにくい形状。戦(いくさ)を意識した造りが特徴といわれている。