中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。
第15回で取り上げるのは、薬師岳の南西、標高2,701mの稜線上に建つ「薬師岳山荘」。前任者から経営を引き継いで40年余り。家族で力を合わせて山小屋を営んできた歳月を、堀井直孜(ただし)さん・よし子さん夫妻と、息子の琢道さんに聞いた。
■「音楽教室の講師」と「山小屋の女将」の二足のわらじ
薬師岳山荘が建てられたのは1968(昭和43)年。開業時は大山町(現・富山市)でホテルやまふじを営む山元はる枝と真砂沢ロッジ(1960/昭和35年開業)の佐伯甚太郎の共同経営で、休憩小屋として営業していた。その後、1983(昭和58)年に堀井直孜・よし子夫妻が経営権を譲り受け、よし子が「女将」として山小屋を切り盛りしてきた。
堀井さんたちの前は、別の方が山荘の経営をされていたんですよね?
堀井よし子さん(以下、よし子)「うちの山小屋の歴史はややこしいんですよ。建設のきっかけは、三八豪雪のときの愛知大学山岳部の遭難事故(※1)だったと聞いています。最初は山元はる枝さんと佐伯甚太郎さんの2人の共同経営でスタートし、しばらくして甚太郎さんの娘の山本照子さんとご主人が甚太郎さんの権利を引き継ぎました。それで山元さんと山本さんの共同経営になったんです」
※1「愛知大学山岳部の遭難事故」:1963(昭和38)年1月、薬師岳の東南尾根で愛知大学山岳部の部員13名が全員死亡した遭難事故。1パーティの遭難者数と全員が遭難した事故は、それまでの日本登山史上、例のない冬山遭難であった。
漢字は違いますが、2人とも「やまもと」なんですね(笑)。
よし子「そうなんです。だから、まぎらわしくて(笑)」
堀井直孜さん(以下、直孜)「照子さんのご主人は学校の先生をされていました。夏休みを利用して山に入り、山小屋をやっていたんです」
よし子「山元さんと山本さんは毎年交代で小屋の営業をしていました。1983(昭和58)年に私らが経営を引き継いだのは、実は山本さんの分だけで。ですが、そのうちに山元さんからも『うちの権利も渡すから、毎年やってほしい』と言われまして。それが1991(平成3)年ですね」
当時、直孜さんは警察官、よし子さんは音楽教室の講師をされていたそうですね。なぜ山小屋をやろうと?
直孜「山本さんとは知り合いで。学校の仕事が忙しくなり、山小屋に入るのが難しくなってきたから、誰か代わりにやってくれる人はおらんかと相談されたんです」
よし子「私らは2人とも山好きでしたからね。主人は元々、富山県警の山岳警備隊員だったので、山には慣れていました。私は私で山小屋に興味がありまして。音楽教室の講師との両立は、夏の間のレッスンを調整すれば、何とかなりそうでした。それで『じゃあ、やってみよう』と」
それまで山小屋で働いた経験はあったんですか?
よし子「専門学校に通っていた18、19歳のころ、剱御前小舎でアルバイトをしたことはありました。それに最初の年は山本さんがたまに上がってきて、仕事の引き継ぎをしてくれましたから、ことさら不安を感じることはなかったです」
直孜「アルバイトの人たちも残ってくれ、彼らにもいろいろ教えてもらいました」
よし子「それでも、はじめのころは失敗もありましたよ。1年目はごはんを炊くのも一苦労で。山小屋にあったのは古い圧力釜で、使うのは初めてだったので、水加減や圧の抜き方がよくわからなかったんです。うまく炊けず、ずいぶんお米を無駄にしてしまいました」
山小屋を始めたころ、直孜さんはまだ現役の警察官でしたよね?
直孜「そうです。ですので、山小屋のことはよし子が取り仕切ってくれて、私は仕事が休みのときに助っ人として山に入っていました。土日に山小屋で働き、月曜の早朝3時過ぎに小屋を出て、8時半に出署する、なんてこともしょっちゅうでした(笑)」