中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。

 第12回は、後立山連峰の稜線上で「冷池(つめたいけ)山荘」「種池山荘」「新越山荘」という3つの山小屋を経営する原一正さんに話を聞いた。

■独力で柏原新道を拓いた父・正泰

 柏原家が営む3つの山小屋のうち、種池山荘(1919/大正8年開業)と冷池山荘(1929/昭和4年開業)はもともと地元の平村(現・大町市平)が建設し、その管理・運営を担っていたのが一正の祖父・長寿(ちょうじゅう)だった。

 村営だった山小屋を長寿が買い取ったのは1943(昭和18)年のこと。当時、戦時下で小屋は閉鎖されており、村としても先行きが見えなかったため、手放すことにしたのだろう。そして戦争が終わると、長寿、正泰親子が力を合わせて小屋を再興していく。

長寿さんは、なぜ村から山小屋を買い取ったのでしょうか?

柏原一正(以下、一正)「じいさんは私が6歳のときに亡くなっているので、本人から山小屋の話は何も聞いてないんです。おやじやおふくろからも詳しいことは聞かせてもらっていません。10代のころ、歩荷として山に入るようになり、最初は針ノ木の大沢小屋の管理人をやっていたようです。歩荷や管理人をするなかで山に惹かれて、『自分で山小屋をやりたい』と思うようになったのではないでしょうか」

冷池小屋(現・冷池山荘)の入り口前にて。柏原長寿と従業員《写真提供:柏原一正》
昭和30年代前半の冷池小屋(現・冷池山荘)。小屋の向こうに見えるのは剱岳と立山連峰《写真提供:柏原一正》

戦後にはお父さまの正泰さんが復員して、山小屋に入るようになったんですよね。

一正「おやじは婿養子でした。はじめは歩荷の仕事をしていたそうですが、じいさんに気に入られたんでしょう、長寿の娘だったおふくろと結婚したんです」

 「おやじは根っからの親分肌というか。面倒見がいい人で、小屋番たちからは慕われていました。小屋の建物を、昭和30年代に木造2階建てに、昭和40年代以降には鉄骨造にと、次々に改築・拡張工事を行ったのもおやじの代になってからです。土木や建築の仕事が好きな人だったから、山小屋の仕事も性に合っていたんだと思います」

若き日の2代目・正泰(左)《写真提供:柏原一正》
1971(昭和46)年、三角屋根の外観が特徴的な種池山荘の新館を建設する《写真提供:柏原一正》

柏原新道も正泰さんが開いたそうですね。なぜ新しい道を?

一正「戦前から使われていた旧道は、扇沢沿いをまっすぐに登っていくルートで、途中に徒渉箇所がいくつかあり、大雨のときは通行できませんでした。しかも、稜線までの最後の直登がかなりの急斜面で。不便な道だったので、昭和30年代後半(1960年代初め)に新道づくりの話が持ち上がったんです。最初は市が業者に頼んでいたようですが、工事がまったく進まず、途中からおやじが人夫とともに自分でやり始め、1966(昭和41)年に開通させました」

 「新しくつくった道には当初、名前はついていませんでした。それが10年ぐらい経ったころでしょうか、登山者が行き来するようになったおかげで道も歩きやすくなり、多くの人に知られるようになりまして。そのころから地元の登山案内やガイドブックなどで『柏原新道』という呼称が使われるようになり、定着していったんです」

 「今でも私たちが柏原新道の整備を一生懸命にやっているのは、うちの名前がついているからです。もし『爺ヶ岳新道』という名前だったら、道直しにそこまで力を入れてなかったかもしれません。柏原家がつくったものだから、という気持ちがあるからこそ、頑張ってやらなきゃと思えるんですよ」

現在の柏原新道。しっかりと整備されており、歩きやすい道が続く《写真提供:柏原一正》
柏原新道を下から眺める。稜線に向かって、山腹になだらかな道が続いている《写真提供:柏原一正》