中部山岳国立公園は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。連載企画「そこに山小屋を興して」では、中部山岳国立公園のそれぞれの山小屋が歩んできた歴史を紐解きつつ、山と人をつなぐ場所としてどんな未来を思い描いているのかを紹介していく。
第14回で取り上げるのは、薬師岳・奥黒部エリアで「太郎平小屋」「スゴ乗越小屋」「薬師沢小屋」「高天原山荘」という4つの山小屋を経営する太郎平小屋グループ。代表の五十嶋博文さんは高校卒業後に山小屋に入って以来、長きにわたって山の自然と登山者の安全を見守り続けてきた。86歳になった今も現場に立ち続ける、その理由とは?
■立山からの縦走の拠点として
博文の父・文一が、太郎小屋(現・太郎平小屋)の営業を始めたのは1955(昭和30)年のこと。その後、1957(昭和32)年にスゴ乗越小屋、1963(昭和38)年に薬師沢小屋、1970(昭和45)年に高天原山荘の管理も担うようになり、4つの山小屋を経営する現在の体制となる。博文は高校卒業後の1958(昭和33)年に山小屋で働きはじめ、小屋の管理や遭難救助に奔走する日々を送ってきた。
そもそも、文一さんはなぜ山小屋をはじめたのでしょうか?
五十嶋博文さん(以下、五十嶋)「きっかけは、1954(昭和29)年の立山ケーブルカー開業に合わせて、県営鉄道(現・富山地方鉄道)の終点が粟巣野駅から千寿ヶ原駅(現・立山駅)まで延線されたことです。うちは元々、粟巣野駅前で商店を営んでいて、登山者向けの土産物や食料品を売っていたのですが、延線によって粟巣野で商売を続けていくことが難しくなりまして。そんなとき、店に出入りしていた立山ガイドから『太郎山あたりで山小屋をやってみたらどうか』と持ちかけられたんです。ガイドさんとしても、立山から槍ヶ岳方面にお客さんを連れて行くとき、途中に山小屋があれば助かる、という考えがあったんだと思います」
五十嶋さんは高校を出てすぐ、進学はせず、山小屋で働きはじめたそうですね。
五十嶋「初めて太郎小屋に入ったのは、高校2年の夏でした。そのときの感動は今でも鮮明に覚えています。太郎山から眺めた薬師岳の姿が素晴らしく、『私の一生はこの山で過ごしていこう』という決意が自然と湧き上がってきたんです。高校卒業後、すぐに山小屋で働くことに何の迷いもなかったですね」
経営する山小屋の数を増やしていったのは?
五十嶋「稜線を縦走する場合、五色ヶ原から太郎小屋までは10時間ほどの行程で、1日で歩けないことはないのですが、その間にもう1つ山小屋があればより安心できます。スゴ乗越の小屋は元々営林署のものでしたが(建設は1926/大正15年)、建物は老朽化して傾き、かなり傷んでいました。営林署としても自分たちに代わって小屋の管理を担ってくれる人を探しており、うちが譲り受けることになったんです」
縦走の利便性を考えてのことだったんですね。
五十嶋「そうなんです。そのころは小見(現在の富山地方鉄道・有峰口駅がある地区)から折立に入る道がなく、太郎小屋に泊まるのは縦走のお客さんしかいなかったんです」
薬師沢小屋や高天原山荘は?
五十嶋「太郎小屋から雲ノ平や高天原に向かう登山者が年々増えてきたこともあり、薬師沢にも山小屋があった方がいいだろうという話になりまして。それで黒部川との出合に1963(昭和38)年に薬師沢小屋を建てました」
「高天原山荘は、1960(昭和35)年に大東興業という会社が採掘作業員用の宿舎として建てた小屋で、将来的には登山者向けの営業も視野に入れていたようです。しかし、奥黒部という厳しい立地条件から運営がままならなくなり、1968(昭和43)年ごろからうちで管理するようになり、1970年(昭和45)年に正式に買い取りました」
お父様は山に上がらず、現場のことは五十嶋さんが任されていたと。
五十嶋「親父は麓の千寿ヶ原で商店をやりながら、役所に出す書類の作成やお金の管理をしてくれていました。山小屋の現場のことは私が任されて、親父から『ああしろ、こうしろ』と細かく指示されることもなかったですね」