渓流釣りは、魚との出会いだけでなく、自然の中に身を置くこと自体がぜいたくな時間だ。けれど時には、そんな静けさの中に説明のつかない気配が紛れ込むことがある。

 久しぶりに兄弟2人で出かけた釣行前夜の車中泊。焚火を囲んで過ごすはずの夜は、思いがけず静かな違和感に満ちていた。

■コンパクトカーでの“無装備車中泊”

訪れた渓谷は地元で心霊スポットとして有名な場所でもあった

 じっとりと湿った空気が、Tシャツの首元にぴたりと貼りついてくる。あれはたしか、15年ほど前のことだったと思う。子どもの頃を思い出しながら、弟と久しぶりに渓流釣りへ出かけた時のことだ。目的地は、携帯の電波も届かない山奥の渓谷。前日の夜から現地入りして、車中泊をすることにした。

 当時は今みたいに「車中泊」なんて言葉は浸透しておらず、もちろん装備も知識もなかった。当時、筆者が乗っていたのはマツダのデミオ。コンパクトカーの運転席と助手席に、それぞれ無理やり身体を折り曲げて寝るしかない。車中泊というより、車内拘束に近い姿勢だ。

■湿った夜、そして酒。焼けていない肉と不格好な焚火

釣行前夜は小雨だった

 夕方前に現地に着き、荷物を降ろした。ビニール袋の中には、スーパーで買ってきた安い焼き肉用の肉とタマネギ、ピーマン。それにお決まりのカップラーメン、そしてたくさんの焼酎とビール。肉を焼くための道具は用意していなかった。

 「どうやって肉焼くんだよ」

 弟が尋ねる。あいにく空は曇っていて、小雨がぱらついていた。タープなんてものは持っていない。地面も木も湿っていて、焚火もうまくいきそうにない。

 「石焼きにしよう。薄くて平たい石を拾って、火でガンガン熱して、石の上で肉を焼くんだ。きっと旨いぞ」

兄弟で深夜まで呑んだ

 弟は半分いぶかしげ、半分呆れ顔で「楽しそうだね」と薄く愛想笑いを浮かべた。

 焚火は、思った以上に火がつかなかった。湿った薪は煙ばかりが出てなかなか火力が上がらない。やっとの思いで温まった石も、ジュウジュウと音を立てるわけでもなく、肉の赤みが中途半端に残ったまま、なんとなく火が通っている気がする程度。

 「これ、あんまり美味しくないかも……」

 「だな。まぁ、しょうがないね。とりあえず酒飲もうぜ。明日早いし」

 焼き肉なのか何なのかよくわからないものを口に入れ、ぬるい焼酎で流し込む。弟と、子どもの頃の話なんかをぽつぽつ話しながら、夜が更けていった。時計を見ると午前1時を過ぎていた。