闇に潮が香る静寂のなか、キャストすると電気ウキが流れ星のように飛ぶその情景がすばらしい。たとえ釣れても釣れなくても、筆者は夜釣りとその雰囲気が大好きだ。
だが、よい思い出ばかりではない。ときには理解不能な出来事が起きる。
■蒸し暑い真夏の深夜
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約30年前の7月、東北のとある港で不思議な出来事が起こった。当時、筆者は夜釣りに夢中になっていた。仕事を終えたあと、友人とともに、23時から釣りを開始した。狙うのはメバルやアナゴだ。平日の深夜ということもあり、さすがに人気の釣り場だったが、この日の防波堤は我々2人だけだった。
真夏日だった日中の影響が強く残り、夜になっても気温が高く、微風ではあるが生暖かい海風が肌にまとわりつく。海は穏やかながら消波ブロックに当たる波音が静寂の中で時折響く。午前3時に満潮を迎えるため、その前後が時合い(魚の活性が上がる時間帯)になると予測していた。
■足音もなく現れた中年男性
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午前0時を少し過ぎた頃だった。「釣れますか?」と背後からの突然の声に背筋がゾクリとした。振り返ると、中年男性がすぐ後ろに立っていた。音もなく、まるで闇の中から突如現れたかのように気配を全く感じなかった。我々がいるのは防波堤の先端で、港からは300m以上離れている。歩いてくる人影があればすぐに気づくし、いくら波音があったとはいえ、足音もなくやってきたのには驚いた。
帽子を深く被った顔が規則的に点滅する灯台の明かりに照らされ、目から下だけが緑色に浮かび上がるように見える。違和感を覚えながらも「いや…… あの、釣りを開始して間もないのでまだ何も……」と、ぎこちない返答をするのが精一杯だった。
男は何も言わず我々から5mほど離れた場所で、おもむろに釣りを始めた。我々も落ち着きを取り戻してキャスト。しかし、筆者の釣り竿にライントラブルが起きて対応に追われることになる。
■海水の痕だけ残して忽然と消えた釣り人
幸いライントラブルは軽微であり、糸の絡まりは5分ほどで直せた。いや、もっと短かったかもしれない。再度気を取り直してキャストしようと構えたとき「さっきの人、もう帰ったのか?」との友人の問いに、私は思わず男性のいた辺りを見た。確かに、そこにいたはずの人がいない。「いや、そんなはずないだろう。来たばかりで何投もしてないのに……」
不思議に思い、辺りを見回す。防波堤の端から端まで視界は開けている。もし帰ったのなら、去っていく後ろ姿が見えるはずだ。それどころか、荷物や竿などが何ひとつ残されていない。中年男性がいた場所には、引き上げた仕掛けから滴り落ちたとみられる海水の痕だけが、不気味な存在感を示していた。
■捜索したが、どこにもいない!
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「海に落ちたのではないか?!」 2人が同時に口に出し、とった行動は一緒だった。恐る恐る防波堤の淵に近づき、懐中電灯で消波ブロックやその隙間、また海面をくまなく照らした。しかし、海辺は静かにうねるだけで、男の姿はない。そもそも転落すれば何かしらの音や叫び声がするはずだが、それすらも聞こえなかった。
「消波ブロックに降りたのだろう」もっと探すべきだとは思いながらも、恐怖心が理性を覆い隠す。防波堤の傍らには一段低く消波ブロックが設置されており、危険だがそこに降りた方が釣れる場合がある。おそらくそうした行動に出たのではないか。そのように結論づけ、気にしないように平静を装った。