■突然聞こえてきた不気味な声

釣れない気晴らしに、川岸に咲くミツマタの花にカメラを向けていると突然、斜面の上から「ワァワァ」「ガヤガヤ」と騒がしい声が聞こえてきた。
一瞬、鳥の群れかとも思ったが、それにしてはボリュームが大きい。低い声、高い声が入り混じり、動物のものとも思えない。釣りをしていた友人らも異変に気づいたようで、竿を振る手を止め、斜面をじっと見上げた。
「あれ、なに?」
「猿の群れかな。でも、なんだか……」
「人の声、だよね」
その声は確かに、人間のものだった。

これまでも筆者は、山で本当に得体の知れないものに遭遇したとき、頭がぼうっとして判断能力が鈍ることを何度か体験している。このときも普段なら迷わず車へ引き返す場面だったのだが、大の大人が3人いるからという妙な自信と、鈍った判断能力が邪魔をした。
何かあったとしてもきっとどうにかなるだろう。そんな根拠のない決断をし、釣りを続けることにした。
だが、事態はさらに奇妙な展開を見せた。渓流を釣り上がっていくと、声も並走するようについてきたのだ。
しかも、次第にその声は大きくなり、早口になっていく。よく聞けば、それは年配の女性たちの声だった。しかし、彼女たちはこちらに話しかけているわけではなく、まるで道端で井戸端会議でもしているかのように、絶え間なくワイワイと話している。
私たちのいる場所は、両岸が切り立ち、天然林が広がる深い谷。決して人が簡単に移動できるような地形ではない。
「ねえ、あれ、女の人の声だよね」
「そんな気がするな」
霞がかかったようにぼうっとした頭のまま、釣りを続けた。
■消えた声と記憶

声はしばらくの間、一定の距離を保ちながらついてきたが、いつの間にかボリュームが下がり、やがて静寂の中に溶けていった。
結局、その日私たちは大した釣果もないまま、区切りとなるポイントまで釣って車へと戻り、何事もなかったかのように山を後にし、帰路へとついた。
しかし、本当に奇妙なのはこの後だった。
後日、3人で集まり、あの日の出来事を話し合ったときのこと。
「なあ、この前の声、よくよく考えたらすごく怖かったよな?」
「本当だよ。もう、しばらくあの谷には行きたくないね」
私たちはそう語り合ったが、ひとりの友人だけが、目を丸くしてキョトンとしていた。
「え? 何の話?」
「いや、だから、あのときの声だよ。ずっと俺たちについてきた……」
「……何言ってんの? そんなの全然覚えてないよ」

彼は本気だった。
果たして、あのときの声の主は一体何だったのか。そして、なぜ彼だけがその記憶を失ってしまったのか。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、あれから数年後、私たちが何事もなかったように再びその谷へ釣りに行っていることなのかもしれない。
ナントカに付ける薬は……。