石見国の小勢力・福屋氏。戦国時代には、大内、尼子、毛利と隣国から侵攻してくる大勢力に翻弄され、たびたび臣従先を変えざるを得なかった。最後には父祖伝来の地を捨て落ち延びざるを得なかった福屋氏が、毛利氏との決戦で拠点とした城の一つが、松山城(島根県江津市)だった。結果、落城してしまうのだが、山城としての見どころには事欠かない。前編に続いて、いよいよ後半戦。まずは出丸へと足を運ぶ。
■出丸へは手前の分岐に要注意
前編でも触れたが、松山城の「扇の要」が主郭南西の谷間にある、土橋を伴う堀切だ。せり上がるような切岸。両脇にはしっかりと竪堀も従えたそのたたずまいに、しばし見惚れてしまう。土橋の先へと延びる道の先が、出丸・桜丸だ。

といっても、土橋をわたったすぐ先が出丸、というわけではない。尾根はいったん細くなり、すぐにまた幅が広がる。40~50m進んだところで分岐。

もし本記事を見て桜丸を目指す人がいたら、ここは注意が必要。というのも、道なりになんとなく進むと、左へと折れてしまうのだ。地形的にも主尾根は左へ延びていて、右は支尾根。看板もないし、一見分岐らしくもない。
自分も地図と現況を見比べつつ、こちらで間違いないと慎重に判断を下し右へと下っていった。

ここまでに比べると踏跡もほとんどなく、延々と下る道すがら、少々不安になる。距離にして100m近く、高低差も20mは降り、「やっぱり間違っていたのかな……」と思いかけたところで、だしぬけに連続堀切に出くわした。

■出丸のほうが本城よりスゴイ!?
そして、その先の堀切に足を踏み入れると……。

「なんじゃこりゃ~」である。前編、本城の主郭手前の大切岸より、出くわした瞬間の驚きは数倍。おそらく落差もこちらのほうが勝っているはず。出丸にして本城を上回る防御壁。恐るべし。
さて、この上が桜丸の主要部であることはわかっている。しかしどうすればいいのか。
ま、悩んでも仕方がない。登るしかないのだ。意を決して足を踏み出す。主郭の時と違い、道らしき部分も見えなかったため、切岸をほぼ直登。点在する木の根を頼りに一歩一歩進んでゆく。正しくは直登ではなく曲登だ。三分の二ほど登ったところで右へ回りこむ。

竪堀に足を取られないよう慎重に脇をすり抜けながら、無事到達。


よく見ると、土塁には拳大の石がちらほら。本城でも何か所かで石を見たが、どれも遺構にしては中途半端な感じだった。一方、この桜丸のものは、土塁の補強として使われていたのでは? と思わせる。ただし全面的にびっしり、というわけではないので、イマイチ判然とはしないのだが……。
桜丸は、前編後半、大堀切の向こうで見た段々の曲輪と形状が似ていた。土塁も片側のみで段差を越えて連なっている感じ。ただし、曲輪間の段差はこちらのほうが明確で、特に最下部と一つ手前の曲輪間は2mはあろうかという切岸だった。


桜丸内をひと通り巡り、切岸を今度は直降ならぬ曲降。下りのほうが危険なので慎重に。堀底まで無事にたどり着き、ふと足元に目をやるとお地蔵さんがいた。

桜丸探索が無事であるよう見守ってくれていた気がして、手を合わせた。