「松山城」は全国各地にいくつもある。最も有名なのは現存天守が山上にそびえる、愛媛県松山市のそれだろう。同じく現存12天守のひとつで、最近は雲海に浮かぶ城としても知られるのが、備中松山城(岡山県高梁市)。山城でいうと、宇陀松山城(奈良県宇陀市)も忘れてはいけない。
今回訪れるのは、現在の島根県西部、旧国名だと石見国。中国山地に源流を持つ大河・江の川の下流にある松山城(島根県江津市)だ。
■もう城内なのか、まだ城外なのか
日本海へ流れ込む江の川の河口から遡ること数km。蛇行する川の右岸、市村という集落の背後にそびえるのが松山城。標高145m、比高130mと聞くと若干ビビってしまう。あくまで私見だが、比高100mがひとつの基準。それを超えると「ちょっとキツそうだな」と覚悟を決めてかかるようにしている。
登城前に地図を調べていると、城の北側に「松山城跡 登城口」を発見。どうやら舗装された峠道のようで、登城口そばにも駐車スペースがありそう。麓から登るのが本来の登城ルートだし、戦国を体感するならそちらが正解なんだけどな、と独りごちつつ、結局日和ることにする。
※比高(ひこう):麓から城の最高地点までの標高差

カーブも多くなかなかの勾配の車道を進み、登城口へ。地形図の等高線で確認してみると、100mほどの比高を稼いだことになる。やっぱり下から登るべきだったかな……。ちょっとだけ自責の念を感じつつも、山道へ足を踏み入れる。
松山城までは、登城口から南へおおむね500mほど。山道なのでプラス100~200mほどかな、と想定。山道でこの距離はそこそこだが、今回は比高がほとんどなく、せいぜい30~40m。わけなくたどり着けるだろう。問題は道がしっかりしているかどうかだ。

案ずるより産むが易し。分岐に看板も出ているし、道は踏み跡もしっかりあり、幅も1mほどある。ほぼ尾根をたどるだけなので、迷う心配もなさそうだ。尾根をしばらくゆくと、こんもりとした小ピークが見えてきた。

見張台のようにも見え、「ここから城域か?」とにわかにワクワクする(この瞬間が、山城巡りで一番盛り上がる)。ピークを迂回した先でも、思わせぶりな地形。

パッと見は明らかに竪堀。なのだが、回りの地形もコミで見ると、ちょっと不自然。せめて写真中央の登山道が堀切っぽく凹んでいればよいのだが……。
■あまりに見事な切岸に驚愕
結局、よくわからないまま通過し、再び尾根道へ。さらに100mも進まないうちに、今度は崖が立ちはだかる。

ここでもやはり、尾根は直進だが登山道は左へカーブして逸れている。しかし、先ほどの小ピークより地形が不自然だし、これは切岸、つまり城遺構だと判断してよいのではないだろうか。ついに「この先、城内」だ。


城絡みでミステリーというと、姫にまつわる落城秘話や落ち武者関連を想像する人が多いのだが、自分の場合、地形こそがミステリーだ。机上で得た知識では説明のつかない、謎な構造や妙な配置に出くわすことは、山城では珍しくない。「いったいなぜ?」と思いつつも、目の前にそれが厳然とある。ミステリーの答えをいろいろと推理しながら、山城を歩くのは悪くない。
松山城でもそんなことを考えながら進んでゆくと、いきなり壁のような切岸がデンっと現れ、思わず笑ってしまった。これはミステリーとは真逆の、まごうかたなき城の遺構だ。「どうだ! 文句あるか」と腕組みして立ち塞がれた気分。文句なし。この時点で、「こりゃなかなか見応えアリの城になりそうだな」と確信。そしてそれは、間違っていなかったのだった。


切岸の真下の木の根元には、ほぼ円形の凹みがあった。『石見の山城』(高屋茂男編/ハーベスト出版)によると、これは井戸跡とのことだが、はたして。こちらはミステリーかもしれない。

※切岸(きりぎし):人工的に削り急角度にした崖
■キレイに整形された主郭部
城内各所を巡る前に、松山城の歴史と城主について触れておきたい。室町時代初期に築城とされ、戦国時代は福屋氏の領有。福屋氏は同じ江津市内だが、直線距離で約10km離れた本明城が拠点の国人。第十二代・福屋隆兼は、尼子氏、のちに大内氏、続いて毛利氏に臣従する。
周布城の記事で触れたように、石見国は石見銀山があったため、隣国の尼子、大内、毛利という大勢力の国内侵攻にさらされ、それとともに諸勢力も翻弄されている。福屋氏も一旦は毛利氏に従ったものの、領地替えに不満を持ち、1561(永禄4)年に叛旗。その際、隆兼は松山城に籠城するが、1562(永禄5)年に落城。さらに本拠の本明城も捨て、落ち延びる。
現在の松山城の遺構は、隆兼時代のものか、それとも毛利氏が接収したのちに改修されているのか。前述の落城後には史料に登場しないようなので、個人的には隆兼時代のものだと思いたい。この城で、迫り来る毛利の大軍と戦ったと考えると、戦国好きとしては興奮するものがある。
さて、切岸上が主郭のようだが、どうやって登るか。壁のように立ちはだかる切岸とにらみあっているうちに、井戸の左あたりにわずかながらスロープ状の道が見えてきた(ような気がした)。直登よりは勾配がゆるくなるし、これをたどることにする。
最上部がかなりの急角度だったが、樹木の助けも借りつつなんとか。ほぼ切岸上、主郭の外周部に手が届きそうなところで、振り返ってみる。

足を滑らせないように慎重に登りきると、見事な平坦地が目の前に現れた。

傍らにはぽつんと石碑のようなもの。地蔵の姿が掘られていた。『石見の山城』によると江戸時代の供養塔。いったいなんの供養塔だろうか。

主郭の先の南側には、やや幅が狭くなった平地が延びている。その先には同じようなほぼ円形の平地。つまり上から見ると、真ん中がくびれたひょうたん型。両端の円形曲輪とくびれ部分まで含めて一つの曲輪で、その全体が主郭だったといえるのかもしれない。

