■「自然を生かす」 先進的なエネルギーシステム

 今でこそ太陽光発電など自然エネルギーを利用している山小屋は多いが、穂高岳山荘はその先駆けだった。1960年代から風力発電を試み、80年代には太陽光発電を実用化した。自然エネルギーを生かした先進的な電力システム作りにこだわったのは、2代目の英雄である。

山荘の屋根に設置された太陽光発電パネル《撮影:内田修》

なぜ山小屋の電気に自然エネルギーを利用するように?

「最初は60年代前半、重太郎が風力発電を試みています。当時はエンジン発電機が導入される前で、小屋の灯りはランプやロウソクの時代。コルを吹き抜ける風を利用して、何とか山小屋で電気を起こせないか、と考えたようです。けれど、このときは風車の制御がうまくできず、発電機の故障も多かったため、数年で頓挫しています。その後、エンジン発電機が導入されて山小屋でも安定した電気が得られるようになりましたが、70年代後半に父が再び風力発電に取り組み始めたんです」

エンジン発電機があるのに、なぜ風力発電を?

「エンジン発電機は燃費や騒音のことを考慮して、消灯後やお客さんのいない昼間は止めていました。でも、夜間に常夜灯を灯したり、父はクラシック音楽が好きでオーディオ機器を山荘内に置いていたので、そのためのちょっとした電気がほしい、ということだったみたいです」

その後、太陽光発電も試みていますよね。

「きっかけは、山小屋での自然エネルギーの利用について協力をしてくれていた大学の先生からの提案でした。その後、従業員を使って日射量などを測定し、山荘の立地が太陽光発電に適しているとわかると本格的に導入し、パネルの数を増やしていきました。当時の従業員は、山小屋に働きに来たのに、日射量や風速のデータ収集をやらされて、『自分は山に来て何をやっているんだ?』と戸惑ったんじゃないでしょうか(笑)」

太陽光パネルの発電データを見る従業員《写真提供:穂高岳山荘》

ほかにも、さまざまな形状や素材の風車のブレードを試したり、最も効果的な発電バランスや建物内の電気系統を模索したりと、試行錯誤を重ねています。

「70年代後半に風力発電を始めてから、何十年もの間、父は自然エネルギーを使った理想的なエネルギーシステムを追求し続けてきました。父にとって山荘の電力システムも、ひとつの“作品”だったんだと思います」

太陽光で発電した電気をためておくバッテリー。英雄はバッテリーについても徹底的に学び、「町の業者よりも詳しくなった」と語っている《撮影:内田修》

重太郎さんも英雄さんも自分のこだわりを貫き通す、個性の強い方だと感じます。恵さんから見て、お二人はどんな経営者だと?

「本のタイトルにもなっていますが、重太郎は穂高に『生きた人』で、英雄は穂高に『遊んだ人』だったんじゃないかと。重太郎は仕事一筋で、どんなことでも時間と手間をかければ実現できるという信念を持っていました。そんな人だったからこそ、穂高の急峻な稜線で山小屋を始め、登山道を整備し、登山者が安全に登れる環境を一から作っていくことができたんだと思います。農民が荒れ地を耕し、自分たちの暮らしのために田畑を作るように、重太郎は『穂高を耕す』ことに生涯を懸けた人でした」

 「一方、父の英雄は、自分の美学や理想を実現させる場所として山荘をとらえていました。『俺は趣味でやっとるんや』とも言っていましたが、その裏では研究や勉強を重ね、従業員をまきこみながら、あらゆることに細部までこだわっていました。父は、山荘を穂高にふさわしい山小屋にするため、風や太陽、水や石など、そこにある自然を最大限に生かそうとしました。そうしたこだわりは、お客さんにとっても居心地のいい空間を作ることにつながっていったと思います」

近くの雪渓の水源から流れてくる水をためておくステンレス製のタンク。37個あり、約80トン貯水できる。これも英雄のこだわりの設備のひとつ《撮影:内田修》
1987(昭和62)年に完成した「太陽のロビー」。中央にデンマーク製の薪ストーブが置かれている《撮影:内田修》
山荘の前庭でくつろぐ、2代目主人・今田英雄《写真提供:穂高岳山荘》