筆者は11年前、「子宮頸がん」の「高度異形成(CIN3)」と診断され、手術を行った。後遺症や体の不調を乗り越え、再び大好きな山を歩けるようになるまで回復した経験を持っている。

 病気だと言われて「命はいつか終わる」ということを悟った。そして、再び山を歩くまで決して容易な道のりではなかった。

 「がん」は日本人の死因の第1位となっている病気で、現在では男性の2人に1人、女性の3人に1人がかかるともいわれる身近な病気だ。同じように病気に悩んでいる方はもちろん、そうでなくても筆者の体験談が、闘病生活や術後の趣味との付き合い方の参考になればうれしい。

■病気発覚から手術まで

ひとりで不安な気持ちを抱える

 当時筆者は、東京で会社員として働きながら、ひとりで息子と娘を育てていた。趣味として月に2回ほど登山し、山岳写真を撮影するのがこの時から好きだった。

 ある年の健康診断で、予想していなかった「再検査」の判定が返ってきた。体に不調な箇所はなく何かの間違いだと思ったが、総合病院で再審査をしたとき、初めて病名が明かされた。

 「子宮頸がんの疑いがあります」と医者に言われた。あまりに突然の話だったので聞き直したのを覚えている。現実味のない「がん」という言葉が何度も頭の中で反芻される。ひとりで車を運転しながら帰宅したが、自宅に着いて車を降りた際、左のドア2枚が大きく破損していることに初めて気が付いた。どうやら帰宅する途中の道路で、左折時にポールを見逃して強引にハンドルを切ってしまったようだ。

 幸いにもけがはなく、警察にも事情を説明して、物損事故扱いにもならなかった。今思えばとてつもないショックと不安に我を忘れて運転していたのだ。子宮頸がんについては、その後しばらくは経過観察ということになった。

 最初の診断から1か月後、検査の結果、症状が進行していると医者が診断し、手術することが決まった。医者の話によると、高度異形成の状態で進行中のため、この次のステージであるがんに移行する前に切除しておこうということだった。

 翌月には手術することが決まった。手術をしてみて実際はもっと病状が悪かったらどうしようと、とめどない不安が押し寄せてきた。もしかしたら二度と山には行けなくなるかもしれないと思うと、どうしても手術前に山に登りたかった。

 車は事故で破損してしまったため、電車を利用し日帰りで山梨県の三ッ峠駅から三ッ峠山に向かい、富士山を眺めながら河口湖へ下りて、河口湖駅から帰宅した。約10時間の山行中一度も写真を撮ることをせず、ただ富士山を眺めて歩いた。もう山に来れないかもしれないと思うと悲しみが溢れた。11月下旬の寒さが身に染みた山行だった。

■手術後の体の変化

春浅い丹沢の檜洞丸

 12月初旬に都内の大学病院で手術を受けた。脊椎麻酔という「意識はあるが、痛みは感じない状態にする麻酔」を受け意識のある中の手術は不思議な感覚だった。ほんの数十分で、小指の先ほどの大きさの子宮頚部が切り取られ、その後家族に見せられた。翌日には退院して自宅療養となった。

 1週間後に仕事復帰したが、早々に同僚から「顔が真っ青で様子がおかしい」と言われ家に帰された。身体の中からただの小さな肉片を取っただけなのに、めまいがして手足をはじめ体のあちこちに力が入らなかった。医者に相談すると徐々に回復するからと言われ、特に薬なども出されなかった。

 我が身の情けなさに嘆いているうち、季節は3月になり春めいてきた。この頃には体調もある程度回復し、医者には「山に登るのは問題ない」と言われた。

 再び山に登れる喜びを感じながら、慣れ親しんだ神奈川県の丹沢にある「檜洞丸(ひのきぼらまる)」を選び、日帰りでゆっくり登った。いつもと変わらない丹沢の冬の終わりの風景が嬉しかった。

 ところがその翌日、膣から出血。生理なのか患部からの出血なのか分からず医者に相談した。病院でよく確認してもらうと、生理の出血であることがわかった。少し安心したものの「今後の山行でも出血するかもしれない」と不安になり、やはり悪い予感の通りになった。この時から筆者は山に行く度に生理になってしまったのだ。