大河ドラマ『どうする家康』では、ムロツヨシが演じている戦国時代の農民に生まれた豊臣秀吉。織田信長の家臣になって美濃攻略の前線基地「墨俣城」を造ったのが永禄9年(1566年)、今から450年以上前のことになる。
当時は自国の領内の安全で防御力の高い場所に築城され、大量の人夫の動員、資材調達、運搬、加工と、とにかく時間がかかった。
しかし、美濃攻略はその逆。危険な場所で、敵の攻撃の最中に進めなければならない、過酷な条件だった。つまり、短期間で造り上げることが求められていた。
織田信長の重臣だった佐久間信盛、柴田勝家はすでにこれに失敗していた。困った信長が家臣たちに相談すると、ただひとり、当時まだ足軽大将程度の位に過ぎなかった秀吉だけが立候補したと言われている。
「一夜城」というのは、「それくらい短期間で建てた」という意味が通説で、実際には「1ヵ月はかかった」といった話のほか、もっとも短期でも「新太閤記」(司馬遼太郎の小説)の3日と言われている。本当ににそうだろうか。
■現代の建築技術よりも進んでいた!? 秀吉の発想力
秀吉の作戦は以下の通り。
①川をよく知る地元衆を動員し、複数の川を使って木材を搬入する
②川上で加工し、現地では組み立てるだけにする
たしかに、現場を見ると2つの川が合流する地点にあり、京都の鴨川デルタのような地形になっている。
つまり、上流で伐採・加工した資材をイカダで流し、夜になって敵が気づかないところで引き上げ、夜が明けると城が完成していたという流れだ。
準備期間を入れれば数日か何週間かかかっていたかもしれないが、現地での施工は一夜だった可能性は十分ありえる話なのだ。
もちろん、城と言ってもよく見られる何層もの天守がある高いものではなく、実際には砦のようなものだった。
後世の人間が聞くと、「一夜で建った」という伝説を信じられず、「現実的に考えると……」というバイアスがかかってしまう。「現代でも家一軒建てるのに何ヵ月もかかるのに、400年も前にできるわけない」といった、先入観が邪魔してしまうのだろう。
筆者は仕事の中で建築工程管理を行なっているが、現在は材料の加工はプレカットで短縮されているが、現場での造作工程は基礎や内装工事などがあり、とても一夜でできるものではない。
秀吉の一夜城は、基礎はもちろん内装もほとんどないため、屋根と壁さえ板張りにしてしまえば、実は一夜で組み立ててしまうことも不可能ではない。
陽が落ちたら直ちに船から木材を引き揚げ、明け方までに組み立てられるだけの人員さえ整えられれば不自然なことではない。そういった意味では、もはや現代のプレハブ工法より進んでいたと言ってもいいくらいだ。