霊験あらたかな戸隠山と戸隠神社がある地は、神話にその名が登場するほか、平安時代には修験道の霊場として広く知られ、江戸時代には将軍・徳川家康から手厚く保護された。古くから信者の団体「戸隠講」が参拝に訪れ、その参拝者をもてなすための宿舎として「宿坊」が整えられた。現在の戸隠は、登山やキャンプ、スキー・スノーボードなどのアウトドアレジャーが盛んで、遊びの場としても人気が高い。宿坊も参拝者だけでなく、一般的な宿泊施設のように観光客でも泊まれるようになっている。
■もともとは参拝者のための宿舎だった
戸隠神社の宿坊について少し説明すると、宿坊は本来、僧侶や参拝者が休むための宿舎なので寺院の近くに整備される。しかし、戸隠は神社の周囲に宿坊がある。これは、戸隠神社がもとは「戸隠山顕光寺」という寺院だったから。神仏分離となった明治維新以降に、寺は神社になり、僧侶は神官になり、宿坊はそのまま残って現在に至るのだ。つまり、戸隠山の山岳信仰が広がり、寺ができ、宿坊ができ、今の戸隠ができあがったというわけだ。神仏分離以前の寺院だったころ、最盛期には「坊」という僧侶の住居が立ち並び、「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれるほど繁栄したという。
■「戸隠講」の広まりで栄えた戸隠の宿坊
寺には、神社のような氏子制度がなく、その代わりに「御師(おし)」と呼ばれる社僧が各地をめぐって布教活動を行なう。御師は参拝者の団体を案内しながら、祈祷の取り次ぎや宿泊の世話もする。この団体を「講社」といい、戸隠の講社のことは「戸隠講」と称される。ただし、神仏分離で戸隠神社になってからは、神社と人をつなぐ御師のような存在を「聚長(しゅうちょう)」と呼ぶ。聚長は神職(神主)であり、宿坊の主でもあるので、宿坊のことは「聚長家」という。これは、この地域独特の名称なのだそうだ。また、戸隠神社とのかかわり深いため、宿坊には必ず神殿がある。希望すれば、神殿での祈祷や朝のお参りもできる点が、通常の宿と大きく異なることだろう。