■やっぱり「カヌー」は朝がいい
静寂が支配する雪と氷の世界をカヌーはゆっくりと進む。午前7時、すでに夜は明けている。湿原には朝陽が射しこんでいて、霧氷を美しく照らし、幻想的な風景を作り出している。気温は10度くらい。この季節としてはかなり暖かい方だという。といっても氷点下である。現地では冬はマイナスを省略するのが一般的なのだ。つまりマイナス10度だ。ちっとも暖かくはない。櫂のしずくも凍る氷の世界だ。防寒着に身を包み、手袋と靴下を2枚重ねて装着し、万全の態勢で臨む。
「真冬の北海道でカヌー? スキーじゃなくて?」
編集部内からそんな声も聞こえたが、けっして思いつきで無謀なチャレンジをしたのではない。極寒の釧路湿原でカヌー体験をしたのは、「国立公園におけるコンテンツ創出と利用のあり方を検討する」という壮大な目的があったからだった。
釧路湿原国立公園は1市2町1村(釧路市、釧路町、標茶町、鶴居村)に跨り、面積は28,788haに及ぶ。釧路湿原は「ラムサール条約」にも登録されている日本最大の湿原であり、タンチョウをはじめ、オオワシやオジロワシといった天然記念物の鳥たちも棲息する。野鳥愛好者には憧れの地でもあるが、そのほとんどに人は入り込むことが出来ない。
カヌーで侵入するのは、湿原東端のほんの一部である。アレキナイ川という釧路川水系の支流で、塘路湖を出発し釧路川本流に合流するまでの約2キロ、ほとんど流れのない湿原の川だ。湖を出てすぐに国道とJR釧網本線の橋をくぐる。その後、人工物と出合うことはなく、音のない世界に入り込んでいく。時折カヌーの底が川床に沈む倒木や枝を擦り、ざざっ、ざざっ、と独特の音を発するのみである。目線が低くなるカヌーからの眺めは、まさに自然に抱かれているようだ。カワセミなどの小鳥たちが迎えてくれた。
■見るものすべてが神秘的……
行く手を塞ぐ倒木の間を縫うようにカヌーを操舵していく。国立公園内であり、カヌーの進路を妨げる倒木等もこの自然が織りなす大自然の一部なのだ。都会では厄介者のカラスですら野生の風格を纏い、樹上からコチラを見張っていた。
太陽が昇るにつれ、岸辺で凍っていた氷柱が輝き出し、川面からは気嵐と呼ばれる水蒸気が立ち昇る。刻一刻と景色は変化し、日常生活では味わうことのできない濃い時間の流れを体感する。やがて本流に合流すると、水がとうとうと流れている。釧路川は154㎞にも及ぶ一級河川で、じつは北海道で4番目に長い。屈斜路湖を水源として釧路湿原を潤し、一度もダムを経ずに太平洋に注ぎ込んでいる。このまま太平洋まで川下りといきたいところだが、観光ツアーではさすがにそこまではできないので、ここでスタート地点へ引き返す。
再び支流のアレキナイ川に戻り、塘路湖に帰るのだが、その前にちょっとコーヒーブレイク。川岸にカヌーをつけ、氷点下の船上で熱いコーヒーを味わう。ふぅ。贅沢なひと時だ。しばしの休憩を挟み、1時間ほどの体験を終えると、寒さで手足の指先が痛くなっていた。手袋も靴下も2枚重ねだったのだが……。すでに陽は高く、出発前とはまた別の情景が広がっていた。