鳳凰小屋は、南アルプス北部の鳳凰三山(観音岳、薬師岳、地蔵岳の3つの山をまとめてこう呼ぶ)と呼ばれるエリアにあり、そのなかの1つ地蔵岳(標高2780m)の山頂から少し下ったところに建っている。

 当時、私の山の知識といえば、ぼんやりと穂高に憧れを抱いていた程度だったので、鳳凰三山など知るはずもない。南アルプスと聞いても、「ん?」っと思っていたし、鳳凰小屋と言われてもそれがどこにあるのか、どんな山小屋なのかなんて何もわからなかった。南アルプスが山梨県だけでなく、長野県にも跨った割と大きな山脈だなんてことを知ったのは、じつはわりと最近。

 山小屋の求人サイト経由でかかってきた電話の主は、細田倖市と名乗った。どうやら、鳳凰小屋のオーナーらしい。声の感じからしておじいちゃんに違いない。しかし、電話口からものすごいパワーを感じる。急にかかってきた電話だったのに、気がつけば履歴書を送る約束をしていた。

 あとから知ったのだが、その時は急遽スタッフが必要で焦っていたらしい。要は誰でもよかったのだ。

■迎え入れてくれた温かさ

涼子さん(右)とは1シーズンを一緒に働いた。友達で頼れるお姉さん。ゲハゲハと笑い合った日々

 あれよあれよという間に、私は無事に鳳凰小屋に採用されて職を得た。

 8年前の7月半ば、最寄りのJR中央本線・穴山駅で、初めましての細田オーナーと待ち合わせて登山口に向かう。当たり前だが、勤務先となる山小屋には歩いて行かなければならない。駅の向こうにはこれから登る地蔵岳が聳えており、てっぺんに突起した岩が見える。「あれがオベリスクだよ」とオーナー。あんなに遠くて高い山に登るなんて!

「午後からひと雨が降るぞ」とのことなので急いで出発する。本格的な登山は学校登山以外では初めて。オーナーは「小屋まではすぐだ、すぐ」なんて言うけれど、登山口の御座石鉱泉を出発してすぐに不安になる。なんせ、いきなり思ってもいない急な登り坂だ。

「山って徐々に登っていくんじゃないの?」と早くもブツクサ呟いた。しきりに「もう半分くらい? 半分は登りましたよね?」と確認する私に、オーナーは黙って丸くて可愛いみかんを投げてくれた。口に含むと、乾いた喉にじゅわ〜と染みる。まだまだ先は長そうだ。

 もう少しで小屋に着く、というところでオーナーの予想通り雨が降ってきた。カッパは着ているけれど、こんなに無防備に雨に濡れることって普段生活しているなかではあまりない。結局8時間も歩き続け、ずぶ濡れになってなんとか小屋に辿り着いた。

「お疲れ様! よくきたね!」とニンニクをむく手を止めて、スタッフの涼子さんが出迎えてくれた。カメラマンとしても活動するスタッフ、宇佐美さんも「よろしく」と一言。

 彼らの言葉と、淹れてくれた甘いコーヒーが温かくて嬉しい。

「今日からお世話になります」

 ワクワクと、そしてちょこっと不安な気持ちを隠しながら、私はコーヒーをちびちび飲んだ。