■多くのスキー場がスノーボードを禁止していた怪
スキー場の勢力分布も変わった。経営母体が外資系企業や新興リゾート系企業にオーナーが変わったりと、30年間でたびたび再編が起きている。
星野リゾート トマムは、「アルファリゾート・トマム」だったし、今はない苗場の浅貝ゲレンデは別経営の独立したスキー場だった。
逆に、垣根を超えてスキー場が横のつながりが目立つようになったは、平成後半の現象。プリンスと東急がタッグを組んだり、白馬エリアのスキー場が「HAKUBA VALLEY」の名で統一ブランディングを図っているなどの例がある。
スキー場の風景も激変。何しろ、平成初期はゲレンデにスノーボーダーがほとんどいなかったのだ。そこから数年で急増する過程において、各スキー場は「滑走禁止」とするか、「滑走可能」とするかで頭を悩ませる。そんな過渡期を経て、今ではNASPAスキーガーデン、かたしな高原、ブランシュたかやまスキーリゾート、白樺高原国際など前者に該当するスキー場は極めてレアな存在となった。
なお、しばらくスノーボードは若者のスポーツの印象があったが、30年も経つと、かつての若者も中高年となり、その色は薄くなっている。
また、スキーヤーの価値観の多様化も起きた。検定でバッジを取ることだけが、上級者の目標でなくなったのだ。
まず、94(平成6)年あたりからの大モーグルブームがあった。以後、10年弱の間に、各スキー場はこぞってエア台ありの常設モーグルバーンを設置し、そこにシーズン券を購入した多くのモーグルスキーヤーが通っていた。
当初は「スノーボードパーク」と呼称するところもあった今でいう「スノーパーク」が、スキー場の必須アイテムとなる。反面、それと反比例するようなかたちで、モーグルバーンは減少し、今では数えるほどに。また、パークはスロープスタイル的なレイアウトがメインとなっていった。
非圧雪斜面を滑れる環境がグッと増えたのも平成後期になってから。信じられないことだが、日本ではパウダーを滑ることがあまりできなかったのだ。そのため、海外に比べ、日本のスキー環境はイマイチ……といった観念さえあった。それが、(今はコロナ禍でストップしているが)ファットスキーを履いたインバウンドが多数やってくるようになるのだから世の中はわからない。日本のスキー場は、そのままの新雪が何よりのコンテンツになることに気付き、非圧雪コース、バックカントリーへのアクセスするゲートや、自己責任エリアの設置と、どんどんパウダー滑走環境は広がり、市場に流通する専用ギアも増えていったのである。
一方で、そうしたコアな方向とは別に、各スキー場のベースエリアには、キッズパークの類が拡大されていき、スキー以外のスノーアクティビティを提供することが求められていったのも平成期の現象だ。
■リフト、ゴンドラも地味に変化。リフト券はアナログ回帰?
索道環境は変わったり変わらなかったりだ。平成初期にはバブル景気からクワッドリフト、フード付きリフトが激増。湯沢高原、竜王スキーパークの大型ロープウェイも平成初期デビューだ。グランデコスノーリゾートの開業時は、ゴンドラ以外のリフトがすべてフード付きであることがウリの一つだった。
ところが、スキー人口の減少などもあり、リフトの新規架設の数は減り、近年では、老朽化で稼働を停止するところも目立つようになる。
そんななか、特筆すべき平成のニューカマーが、苗場=かぐら間の「ドラゴンドラ」だ。これが01(平成13)年のオープン。平成末期では、石打丸山のゴンドラとチェアリフトが混在する「サンライズエクスプレス」の誕生が大きなニュースといえる。
索道絡みでいえば、スノーボードの普及が1度目、ファットスキーの増加で2度目と、ゴンドラのラックの形状が2度、変化した。
意外と変わらないのがリフト券。一時、ICチップ式(カードタイプではなくプレートタイプ)が増えかけたが、主流になることはなく、結局、昔ながらの日付が大きく印字された紙のタイプが生存し続けている。何年か前に、偽造防止のためか「ゴリラ」「リンゴ」「ひまわり」などと、日替わりでアトランダムな単語を記載したリフト券が流行りかけたが、短命に終わっている。
さて、これから20年、30年でスキー文化はどう変わるのか? その答え合わせの記事は、'50シーズンのブラボーマウンテンに掲載したい。
【2020 BRAVOSKI vol.3より再編集】