日本初の国立公園の一つとして、1934(昭和9)年に誕生した「中部山岳国立公園」は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。そんな日本を代表する山岳公園の歴史を振り返ったとき、重要な役割を果たしてきたのが山小屋である。山小屋は、登山者を迎え入れ、食事や憩いのひとときを提供するだけではなく、登山道の維持・補修、自然環境保全、遭難者の救助など、多岐にわたる仕事に関わってきたからだ。

 「そこに山小屋を興して」第4回では、「アルプスの女王」と称される燕岳のすぐそばに建ち、北アルプス屈指の人気を誇る燕山荘を紹介する。燕山荘はどのようにして多くの登山者を魅了する山小屋となったのか。3代目社長の赤沼健至さんと、その長男・大輝さんに話を聞いた。

■カレーライスを提供する「モダンな」山小屋

大正時代、創業間もないころの「燕の小屋」(現・燕山荘)《写真提供:燕山荘》

 長野県の有明村(現・安曇野市穂高有明)で代々天蚕の飼育と製糸業を営んでいた赤沼家の長男、赤沼千尋が燕岳の稜線に「燕の小屋」(現・燕山荘)を開業したのは、1921(大正10)年のこと。ガラス窓のある白塗りの建物で、カレーライスやコーヒー、紅茶を出していたというから、当時としては珍しい「モダンな」山小屋だったようだ。

製糸業という家業がありながら、なぜ千尋さんは山小屋を?

赤沼健至さん(以下、健至)「14歳のとき、営林署の仕事で山に入っていた近所のおじさんに連れられて燕岳に登り、そこで見た美しい景色が忘れられず、『いつか、山小屋を作りたい』という思いを抱くようになった、と聞いています」

 「それともうひとつ、これは本人や父(千尋の息子で、2代目の淳夫)から聞いたわけではなく、私の推測なのですが、1913(大正2)年に中央アルプスで起こった大量遭難事故(集団登山中の教員・生徒ら38人が悪天候に巻き込まれて11人が亡くなった事故。新田次郎の小説『聖職の碑』の題材となる)もきっかけの一つになっているんじゃないかと。事故のあと、長野県は遭難対策の一環として県内の山岳地域に12の石室を建設しました。その一つが東天井にあり、その石室を県の依頼で作ったのが赤沼千尋だったんです。彼が20歳ぐらいのときで、この経験から『安全に山を登るには山小屋が必要』と考えるようになったのではないかと思うんです」

燕の小屋は、カレーライスやコーヒーを提供するなど、ハイカラな小屋だったそうですね。

健至「家業の天蚕の飼育や生糸の商いのため、千尋は日本全国のさまざまな土地を訪ねていました。それで見聞を広め、自分の山小屋に生かしたんだと思います」

燕山荘グループ3代目の赤沼健至

帝国ホテルの大倉喜七郎社長とも親交があり、戦前の一時期、燕山荘は帝国ホテルの下に入っていたこともあったと。

健至「本館を建て替えたときです。1930年代の初めごろ、千尋が『山荘をもっと大きくしたい』と燕の小屋のお客様だった大倉さんに相談したところ、一緒にやろうということになり、株式会社燕山荘として帝国ホテルの資本系列に入ったんです。そして1935(昭和10)年、200人が収容できる今も現役の建物が完成しました。株式会社燕山荘の社長は千尋が務めましたが、会長に三菱財閥の総理事であり、満鉄副総裁などを歴任した江口定條さんが就いてくれたほか、取締役には大倉さんをはじめ日本を代表する実業家の方々が名を連ねていました」

すごいですね……。それにしてもなぜ、実業家の方々は燕山荘を支援してくれたのでしょうか。

健至「赤沼千尋の人柄ゆえだと思います。当時、山岳家として有名人になっていた千尋は博識で、相当に面白い人だったようで。彼と会って話がしたくて、実業家や政治家、文人墨客、大学教授、建築家など日本の超一流の人たちが大勢、小屋を訪ねてくれたそうです」

1934(昭和9)年ごろ、建設中の本館にて。前列中央が赤沼千尋《写真提供:燕山荘》