■クラシックコンサートなど、多彩なイベント開催

 戦後は、千尋の息子である2代目・淳夫が中心となって、山小屋の建物や設備の拡張・更新を進めていく。1955(昭和30)年、ディーゼルエンジン発電機を導入し、小屋で電気が使えるように。翌1956(昭和31)年には燃料を薪からプロパンガスに変更し、沢の水のポンプアップも開始した。また、建物も第一別館、第二別館を増築し、1973(昭和48)年に新館が完成すると、現在の燕山荘のかたちがほぼできあがった。

燕山荘グループ2代目の赤沼淳夫《写真提供:燕山荘》
初代・千尋は文才もあり、1975(昭和50)年に随想集『山の天辺』を出版している。装幀・装画を担当したのは畦地梅太郎

お父様の淳夫さんは、どんな方だったんですか?

健至「祖父と同じで、芸術的な素養に恵まれた人でした。絵画に造詣が深く、畦地梅太郎さんなど画家の人たちとすごく仲がよかったんです。また、写真家としての顔も持ち、日本山岳写真協会の名誉会員や松本支部長を務めたり、自身の写真集の出版や写真展も行っていました」

健至さんが経営を引き継いだのは1977(昭和52)年。おじいさま、お父さまが作り上げてきた山小屋をどのように発展させていこうと?

健至「私が山小屋に入り始めたころ、ほとんどのお客様は槍ヶ岳登山が目的だったんです。だから、山小屋は寝られれば十分、サービスも大して期待していないし、朝は早く出発できるようにさっさと朝食を出してくれればいい、という方が大多数でした。でも、私としては、山小屋ももっと楽しんでほしいと思っていたんです」

 「また、当時は登山ブームがひと段落したころで。今後も山小屋を存続させていくには、どうすればいいのか、必死で考えていました。その中で『燕山荘に泊まりたいから、燕岳に登ろう』と思ってもらえるような、魅力ある山小屋にしていこう、と。それが私の山小屋経営の一番の出発点なんです」

それでアルプホルンの演奏や、クラシックコンサートなどのイベントを開催するように?

健至「アルプホルンの演奏は、最初に始めたことのひとつです。スイスへ視察に行った際、アルプホルンの音色に魅せられて、ぜひ燕山荘でもお客様に聴いてもらいたいと思ったんです。クラシックコンサートは1984(昭和59)年に初開催し、もうすぐ40回目になる燕山荘の代名詞ともいえるイベントになってくれました。ほかにも、ライチョウ観察会、喫茶室でのケーキフェア、登山ツアーや登山教室などを行ってきました」

燕山荘の名物、アルプホルンの演奏。3代目の健至は大学時代、ジャズバンドでトロンボーン奏者として活躍していた《写真提供:燕山荘》
夏のイベントとして人気のクラシックコンサート《写真提供:燕山荘》
年末年始の冬期営業も行い、正月には餅つきイベントも開催《写真提供:燕山荘》

2020年のコロナ禍をきっかけに多くの山小屋では、オンラインの宿泊予約制が導入されましたが、燕山荘グループではその前から行っていましたよね。

健至「始めたのは、2009年か、10年ごろです。それ以前にNHKの番組が燕山荘を取り上げてくれ、お客様の数がものすごく増えまして。それでWEB予約システムを作ったんです」

なぜいち早くWEB予約をやろうと?

健至「当時は混雑すると、1畳に2人のお客様に寝ていただくこともありましたが、もう少しゆったり泊まってもらえるように、という考えからです。過去に例がないことですから、ちゃんと機能するかどうか、最初は不安もありました。ですから、個室予約やイベント予約からスタートさせて、2年ぐらい運用して様子を見てから、一般客室の予約も始めたんです。また、ホームページを作って、ブログで情報発信をするようになったのも、うちは早い方だったと思います」

独自の情報発信は今ではほとんどの山小屋がやっていますが、燕山荘さんが先駆けだったんですね。

健至「なぜブログを始めたかと言えば、燕山荘は4月末から11月下旬までの営業で、その間は小屋に泊まって燕岳に登れることを広く知ってほしかったからです。当時、山の雑誌もツアー会社もゴールデンウィークの情報を大きく出したら、次は7月半ば過ぎからの夏山になっていました。でも、5月、6月にもその時期ならではの山や自然の魅力があります。そんな情報をブログを通じて発信していこうと考えたんです」

北アルプス(中部山岳国立公園)の魅力を多くの人に知ってもらうという点でも、山小屋が担ってきた役割は大きかったんですね。