今年の夏の終わりに日本各地でカメムシが大発生し、カメムシ注意報が発令されたニュースがあったことをみなさんは覚えているだろうか。筆者の家でも夜になると玄関外の常夜灯にカメムシが集まり、翌朝にはその死がいの片付けをしなければならず、1か月ほど大変な思いをした。
しかし、そんな思いとは裏腹にある期待をしている自分がいた。「今年はカメムシ・パターンの釣りが大爆釣するのではないだろうか?」
カメムシ・パターンの釣りというのは、文字通りカメムシをエサとして捕食する鱒(ます)がいることから考え出された釣り方のこと。群馬県の丸沼(まるぬま)では毎年秋になると、越冬場所に移動するカメムシが何らかの理由で湖面に落ちてもがいているところを鱒が捕食するシーンが度々見られる。そんなシチュエーションに合わせて、カメムシに似せたルアーやフライ(ともに擬餌針のこと)を水面に浮かべて鱒を狙う釣りが秋の風物詩となっている。
今回は、そんなカメムシ・パターンの釣り(ボートからの釣り)を楽しむために秋の丸沼に出かけてきたので、その模様をレポートする。
■丸沼は長い歴史をもつ「鱒釣りの聖地」
今回、筆者が訪れた丸沼は昔から鱒釣りの人気フィールドである。その歴史は長く、明治末~大正初め頃にニジマスとヒメマスの養殖が始まったのがきっかけとされている。
その後、丸沼でよい魚が釣れるとの評判を聞きつけた「東京倶楽部(とうきょうくらぶ)」(日本の政官財各界の有力者が名を連ねていた会員制の社交クラブ)のメンバーが会員を募り「丸沼鱒釣会(まるぬまますつりかい)」を結成した。
この鱒釣会のメンバーには、ブラックバスの移殖で有名な実業家の赤星鉄馬(あかぼしてつま)、三菱財閥当主の岩崎小弥太(こやた)、古河財閥当主の古河虎之助、そしてのちに中禅寺湖で東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部を立ち上げた中心人物の通称ハンス・ハンター(範多 範三郎・はんた はんざぶろう)など、他にも当時の日本を代表する多くの有力者が名を連ねていた。彼らは丸沼で西洋式のフライフィッシングを楽しんでいたため、「フライフィッシングの聖地」と呼ばれるようになった。
ちなみに、現在の丸沼の釣り場管理をしている「丸沼温泉環湖荘(かんこそう)」は、丸沼鱒釣会が活動の拠点を中禅寺湖に移した後の昭和8(1933)年に営業を開始(当時の名称は「丸沼温泉ホテル」)。今年で創業90周年を迎えたところだ。
その後、昭和(戦後)になると、日本のルアーフィッシングの黎明期(れいめいき)に活躍した常見忠(つねみただし)や小説家の開高健(かいこうたけし)が丸沼を訪れて、日本のルアーフィッシングの普及に貢献。丸沼はフライフィッシングだけでなく、ルアーフィッシングを含めた「鱒釣りの聖地」と呼ばれるようになったのである。
今回、筆者はそんな長い歴史を持つ丸沼でルアーを使ったカメムシ・パターンの釣りを楽しんできた。
■肝心のカメムシが見当たらない!? 釣りは成立するのか?
筆者が訪れたのは10月下旬。ほぼ毎年この時期にカメムシ・パターンの釣りを楽しみに丸沼を訪れている。件のカメムシ大発生のニュースのほかにも、ネット上には「丸沼でたくさんのカメムシを見かけた」との釣り人による書き込みもあったため、今年はさぞかし多くのカメムシが見られるだろうと期待していた。
ところが現地に到着してみてびっくり。どこにもカメムシの姿が見えないのである。夏には鮮やかな緑色をしているカメムシも、秋になると体色を茶色に変えるのもいるため、もしかしたら枯れ葉に紛れて見逃しているのかもしれないと思い、何度も辺りを探し回ったのだがやはりカメムシは見つからなかった。
例年ならば今日のような暖かい小春日和にはカメムシの動きが活発になるため、湖面に落ちた彼らの姿を簡単に見つけられるのに、これはいったいどうしたことだろう。
湖上でしばらく途方に暮れていたが、悩んだところでどうにかなるわけでもないため、とりあえず釣りを開始することにした。幸いなことに、鱒のライズ(水面に浮かんだ虫などを食べるため魚が水面上に顔を出すこと)が見られたので、水面を意識した魚はいるようである。
午前8時から釣りを開始して2時間ほど経過したが、鱒の反応があったのはたったの一度きりだった。その一度についても鱒のサイズが小さかったようで、ルアーを食いきれずにフッキングには至らなかった。
湖面には相変わらずニジマスのものと思しきライズがときおり見られた。その様子を見ているとかなり小さな羽虫(約1センチ)を捕食しているようだった。これに対して筆者が使用するカメムシを模したルアーのサイズは3センチ近くもあり、魚たちは完全に違和感を覚えているようであった。