■小さな観光名所になっていた3県境
そして「さいぐんとショップ」の傍らには、大きなタテ看板がそびえているのであった。
「さんぽで3県!! 3県境」
各地のゆるキャラが出張り「日本唯一、散歩で行ける3県境ポイント」をめいっぱいPRしているわけだが、そんなマニアックなもん一般の日本人は興味あるわけなかろう。なんだか自らの性癖が暴露されているようで恥ずかしくなってくるが、意外にも家族連れがタテカンの前で写真を撮ったりしているのだ。
問題の3県境ポイントは道の駅から10分ほどの場所なのだが、そこでもやはり観光客が何人かいるではないか。近づいてみれば、まわりの田畑に水を送るささやかな水路が県境となっていた。水路が三差路になっている場所で、3県の県境が交わっている。
その中央に立ち、写真を撮っている男の子と父親。3県を一歩ずつまたいで歩き「散歩で3県」「三歩で3県」を実践している女子のグループ。サイクリストのおじさんたちは、ここを舞台にしたテレビドラマを見てやってきたのだと話している。その名もズバリ、
「はぐれ署長の殺人急行~三県境殺人事件」
3県が交わるこのポイントで死体が発見されたら、どの県の警察が担当するのか…… というテーマだったようだ。3県境はささやかながら、リッパに町おこしの役に立っているのだ。
とはいえ大々的に観光開発するほどではなく、まわりには小さな駐車場が整備されただけで、あとは田畑と民家が続く。北関東ののどかな風景だ。
もともと、このポイントは渡良瀬川の中州にあったそうだ。やはり川を利用した県境だったのだ。しかし1910年(明治43年)にはじまった渡良瀬川の改修工事によって川筋が変わった。渡良瀬遊水地もこのときにできている。
そして3県境ポイントは干上がって陸地となり、その後に農地として整備された。やがて物珍しさから観光客がちらほら訪れるようになったため、3県の自治体が協力して名所として売り出すようになり、いまに至っているというわけだ。
■どうして渡良瀬川が改修され、遊水地ができたのか
渡良瀬遊水地はなかなかに雄大だ。水路と湿地帯が広がり、中心となっている人造湖・谷中湖ではウインドサーフィンの群れがまるで水鳥のようだ。ハイキング客やジョガーもたくさんいる。
なんとも平和な光景なのだが、この遊水地ができたきっかけは、かの足尾銅山鉱毒事件である。
渡良瀬川の上流にある足尾銅山は明治時代の日本の近代化を支えたが、同時に公害も生み出した。周囲の山を伐採し掘削することで、土地の保水力が失われ、下流域では洪水が多発。そしてその洪水には、銅山から流れ出た銅イオンや重金属、カドミウム、ヒ素などの「鉱毒」が含まれていたのだ。
そのため下流一帯で健康被害や、不作、不漁が広がり、栃木の政治家・田中正造を中心とする抗議運動が巻き起こったことはあまりにも有名だ。
対策として、渡良瀬川の下流域に遊水地をつくり、そこへ鉱毒を流し、沈殿させる計画が進められた。こうして渡良瀬川の流れが変わって3県境があらわになり、渡良瀬遊水地が生まれたというわけだ。
いまでは水と緑が、豊かな生態系を育む。ラムサール条約(水鳥の生息地として国際的に重要な湿地に関する条約)に登録されるまでになったそうだ。