■市長の決断ではじめられた御堂筋の拡張工事
東海道本線が大阪から東京まで結ばれるようになると、大阪駅の重要性が高まる。1908年には現在の四つ橋筋が完成するも、市内中心部から若干ずれているし幅も狭い。そこで第6代大阪市長だった池上四郎は、御堂筋を延長4キロ、幅員44メートルへ拡幅する計画を発表。後任として第7代大阪市長に就任した関一は、この計画を実行に移し、1926年から工事が始まった。ただ、「船場の真ん中に飛行場をつくるのか」という批判も多く、さらには国の援助が恐慌と関東大震災の影響で十分に得られない。それでも工事は進められ、御堂筋の拡張は1937年5月に終了した。
このような経緯で大阪の大動脈となった御堂筋。その名の由来となった本願寺津村別院(北御堂)から真宗大谷派難波別院(南御堂)まで南下する。南御堂の裏に鎮座しているのが、坐摩(いかすり)神社だ。
■全国でも珍しい番地に鎮座する坐摩神社
創建には諸説あるが、神功皇后が朝鮮半島の新羅から帰還した際、現在の天満橋の西方付近に奉祀したのが始まりともされているので、伝承に従えば1800年以上の歴史を有することになる。大坂城の築城で移転を余儀なくされ、現在の所在地は大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号。一般的に番地は数字で表記されるが、漢字と数字の組み合わせとなっている。
もともと神社の境内は東区渡辺町だったのだが、南区と東区の統合で中央区が成立したとき地名変更で町名がなくなることになった。これに全国の渡辺さんの団体である「全国渡辺会」が、「渡辺姓」のルーツである渡辺町の消滅に対して反対を表明。市は苦肉の策として、番地に「渡辺」の名を残すことにしたのだ。
坐摩神社の境内には末社の陶器神社が鎮座。陶器製の燈籠が奉納されていて、毎年7月には「せともの祭」が行なわれる。