【山岳偉人伝 入門編】
このシリーズでは、山岳の世界で偉大なる功績を残した人物の軌跡を、簡単にまとめていきたい。

■第6回 山の魅力と魔力とを人々に伝えた山岳小説の第一人者  新田次郎

 山岳小説の大家・新田次郎は、限定されたジャンルの盟主なのではなく、文学界全体でも屈指の人気作家であった。ペンの力をもって「山」という存在の荘厳さ、美しさ、そして厳しさ、残酷さなどを多くの人に伝えた人物である。日本の山岳業界に与えた影響は実に大きい。

 1912(明治45)年に長野県諏訪郡上諏訪町(現・諏訪市)に生まれた新田は、若い頃から小説家を志していた訳ではない。無線電信講習所本科(電気通信大学のルーツ)に学び、1932(昭和7)年に中央気象台(現・気象庁)に入庁している。ここで富士山観測所に配属され、日本一の山と密接した生活を経験する。

 その後、気象台の職員として各地を転々とし、1943(昭和18)年には日本が大陸に作った「満州国」の観象台に転職した。時代は世界大戦のまっただ中。新田はここでソ連軍の捕虜となり、一年間の抑留生活をおくっている。このときの苦しい生活を描いた小説『山羊』が、彼の作家人生の原点だといわれる。

書籍『小説に書けなかった自伝』新田次郎(新潮社) 傑作の裏側にはこんな事実があった。自らが、文筆を始め作家として身を立てるまでの内面を明らかにした作品。新田文学ファンなら必読だ

■妻の作家デビューで自らも分筆の道へ進むが……

 作家の道を考えるようになったのは帰国後。終戦後、満州から一足先に引き上げた妻(藤沢てい=後に作家)が、自らの体験を『流れる星は生きている』というタイトルの小説にまとめて発表したところ、これがベストセラーとなり、さらに映画化もされた。これに刺激された新田は、翌年に帰国すると、中央気象台に復職しつつつもアルバイト的に子ども向けの小説などの執筆を始めている。

 そして、1956(昭和26)年に、雑誌『サンデー毎日』(毎日新聞出版)の権威ある文学賞「大衆文芸賞」に『強力伝』という作品を応募。これが高く評価されることで、作家活動を本格化するのだった。なお、『強力伝』は後に直木賞を受賞している。新田はそれでも気象台の仕事を続けた。60年代前半、富士山気象レーダー建設という難事業に責任者として関わり、これを成功させている。

 だが、出版界が二足のわらじを許してくれなかった。1966(昭和41)年、気象庁には惜しまれつつも退職し、文筆一本に絞ることになる。こうして、『富士山頂』(67年)、『孤高の人』(69年)、『八甲田山死の彷徨』(71年)、『聖職の碑』(76年)、『劒岳 点の記』(77年)と次々の傑作を発表していくのである。

■高視聴率大河ドラマの原作も手掛けた

 その小説の最大の特徴は、理工系頭脳のなせる技か、著しく緻密であることだ。新田は執筆前に、登場人物の経歴や背景などを書き記し、それを時系列に沿って年表的な資料を作っていたという。そして、自身の経験に基づく山岳や気象、地理に関する深い造詣をバックボーンとし、徹底した現地取材により、リアルかつ厚みのある作品群を生み出していった。

 高視聴率を獲得したNHK大河ドラマの原作になった『武田信玄』など歴史小説も定評があり、その分野へも高いモチベーションで挑んでいた。自身は”山岳小説家”と呼ばれることを嫌っていたという。だが、少なくとも、新田次郎が日本のおいて他の追随を許さない“山岳小説の第一人者”であることは、山のように動かしがたい事実なのである。

 

新田次郎
[ 1912年6月6日 ~ 1980年2月15日 ]
作品のドラマ性の高さもあり、山岳小説に限らず数多くの作品が映像化されている。昭和のベストセラー作家ながら、現在も登山ブームを背景に新たなファンを増やしている。没後「新田次郎文学賞」が創設された。

●新田次郎の軌跡

▶1932年:中央気象台に入庁する
▶1943年:満州国観象台に、高層気象課長として転職
▶1945年:新京にてソ連軍の捕虜となる
▶1946年:帰国し、気象台に復職する
▶1951年:『強力伝』が「サンデー毎日第41回大衆文芸」賞で、現代の部一等に輝く
▶1956年:『強力伝』が第34回直木三十五賞を受賞
▶1963-65年:富士山気象レーダー建設の中枢に関わり成功させる
▶1966年:気象庁を依願退職。最後の役職は観測部測器課長
▶1974年:吉川英治文学賞を受賞
▶1979年:紫綬褒章受章
▶1980年:心筋梗塞のため67歳で他界

書籍『よくわかる新田次郎』(山と渓谷社) 著名人、家族、関係者らが新田次郎の全貌を語る。寄稿、再録、インタビューなど、多角的構成で作家、作品の両方に迫った一冊だ