【山岳偉人伝 入門編】
このシリーズでは、山岳の世界で偉大なる功績を残した人物の軌跡を、簡単にまとめていきたい。
■第2回 謎を残したエベレスト登山のパイオニア、ジョージ・マロリー
人類が初めてエベレスト登頂に成功したのは、1953年5月29日のこと。エドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイにより、その偉業は達成されている。だが、その前に“世界最高峰に登頂したかもしれない”とされている人物がいる。それが、1886年に生まれたイギリスの登山家・ジョージ・マロリーである。
20世紀初頭、北極点、南極点と2つの局地初到達を他国に果たされていたイギリスは、国の威信をかけてエベレスト初登頂のプロジェクトを推し進めていた。第一次大戦の影響で当初より計画は遅れるも、1921年、調査目的の第1次エベレスト遠征隊が組織される。当時はまだ、エベレストに関する情報が乏しく、まずは現地を知る必要があったのだ。ここに、登山家としてマロリーが名を連ねた。いわば、マロリーはエベレストの開拓者の一人ともいえた。この隊は、標高7020mのノース・コルまでのルートを把握。そして、チベット側からの最速ルートを確認している。
■今では信じられない、連続3度のサミットプッシュ
1922年に派遣された第2次遠征隊にもマロリーは参加した。リスク管理が重視される今日、ひとつの登山隊が、サミットプッシュ(いわゆるアタック)を短期間で何度も行うことはない。どの隊も一発勝負だ。だが、当時は違った。なんと3度のトライがなされているのだ。
マロリーは最初のチームを先導することになるが、“酸素ボンベは信頼性が薄い”という考えから無酸素を選択している。そして、苦しみながらも北東稜の稜線に到達。標高8225mという当時の人類最高到達高度を記録した。ところが、悪天候により足止めをくらい、人類初の登頂を諦めざるを得なかった。
続いてマロリーの盟友・ジョージ・フィンチらによる第2次チームは、酸素ボンベを用いて5月27日に8321mの地点までハイスピードで登ることに成功。次にマロリーは、戻ってきたフィンチらと第3次チームを組み、3度目の正直を狙った。ところが、ここで雪崩事故が発生。7名のシェルパが命を落とす悲劇に見まわれ、計画は断念となった。
■果たしてマロリーは、エベレストに登頂したのか?
事故で犠牲者が出たことから、一部からバッシングされることになるマロリーだが、登頂への思いは揺るがなかった。そして、1924年の第3次遠征隊に参加した。
マロリーはまず、1度目のサミットプッシュに失敗。続いて6月6日、若手のアンドルー・アーヴィンを引き連れ、再び頂を目指した。このときマロリーは、酸素器具に対する考えを改めており、ボンベを担いでの登攀となった。
結論から言うと、マロリーはそこから戻ってくることはなかった。失踪後のマロリーらがどのような行動をとったかは未だわかっていない。登頂後に遭難となったのか? その前に生命を落としたのか? 遺体はなかなか発見されることがなく、見つかったのは1999年のこと。このとき、遺品にカメラがあれば、「マロリーが登頂したかどうか?」という長年の謎が一気に解けるかと思われたが、カメラは見つからなかった。一方で、彼が登頂した際に、頂上に置いてくるとしていた妻の写真が発見されなかったことなどから、登頂できなかった可能性も指摘されている。
マロリーは人類初のエベレスト登頂者だったのだろうか?
ジョージ・マロリー
George Herbert Mallory
【1886年6月18日~1924年6月?】
日本では「なぜエベレストに登るのか?」と聞かれ、「そこに山があるから」と答えたという逸話が広まっていた。だが、今日は「山」ではなく、「エベレスト」が正しいとされる。
●マロリーのエベレスト挑戦の軌跡
▶1921年:
第1次エベレスト遠征隊の一員として調査登山→ノース・コルの鞍部に到達
▶1922年:
第2次遠征隊の一員として登頂を目指す(1度目)→北東稜の稜線(8225m)に到達
第2次遠征隊の一員として登頂を目指す(2度目)→雪崩事故に遭い、途中で断念
▶1924年:
第3次遠征隊の一員として登頂を目指す(1度目)→途中で断念する
第3次遠征隊の一員として登頂を目指す(2度目)→行方不明となる。
人類初のエベレスト登頂者となったという説もある