■気配の残る夜

ギラリと光るメバルの目が我々に真実を語るかのようだ

 その後もモヤモヤしながら1時間ほど釣りを続けたが、どうにも集中できない。お目当てのアナゴは釣れず、2人合わせてメバルが数匹と釣果は散々だ。ふとバケツを覗くと魚の目が訴えているかのようだ「早くこの場を離れろ」と。

 我々は一度も口にしなかったが、ともに同じことを思っていた。「もう、ここにはいられない限界だ」。満潮時刻の前だが納竿。そして、あの釣り人が再び現れることはなかった。

■報道されなかった異変と、いまだに思い出される恐怖

 それから数日間、新聞をくまなくチェックした。友人にも電話で確認したが、その防波堤での事故の報道は一切なかった。もし転落していたなら、何かしらの情報が出るはずだがそれもなかった。ならば、あの中年男性はいったい何だったのか。

 さらに別の釣り仲間数人にこの話をしたが、反応はさまざまで「思い直して消波ブロックに降りたのだろう」や、「あの防波堤では何人か亡くなっている。そのうちの誰かが現れたのだろう」と冷やかされる場面もあった。

 この出来事は、今でも友人と会うたびに話題になる。「やっぱり、あれって……」答えは謎のままだ。だが、あの夜帽子を深く被った中年男性の姿だけは、今でもはっきりと思い出せる。

■夜釣りでの教訓

筆者は夜釣りでウエストタイプのライフジャケットを着用し、用途に応じた複数のライトを持ち歩く

 この出来事を境に、夜釣りでは隣で釣りする人に必ず声をかけるようになった。また、ライフジャケットの着用はもちろん、自分の居場所を示すランタンやヘッドライト、暗闇をしっかり照らせる強力なライト(予備の電池を含む)も持参するようになった。

 今回の異変を通じて、漁港や防波堤での夜釣りでは、不意の事故や異変に備え、十分な準備と注意が必要であることを改めて認識させられた。 

■そして再び

 数年後、同じ防波堤を訪れた。たまたま近くを通りかかったので何気なく寄っただけだ。静寂はあの夜と変わらず灯台の緑色のライトが規則的に点滅して、波の音だけが響いている。既に恐怖心は薄れたが、防波堤に上がることもなく、心地よい夏の夜の海辺を感じていた。

 ふと防波堤の先端を見た。数名が釣りを楽しんでいたが、幻覚であろうか…… 見覚えがある男の影がちらつく。まるで、あの夜の続きを待っているかのように 。