■アンティーク絵葉書4 100年以上前の二荒山神社中宮祠の唐銅鳥居

絵葉書には「(日光名所)中禅寺湖畔」と書かれている。今から100年以上前に印刷されたもの

 続いて紹介するのは、二荒山神社中宮祠にある唐銅鳥居(からかねとりい)を横から写した絵葉書。明治40年(1907)~ 大正7年(1918)に印刷されたもの。

 絵葉書には鳥居の前を着物姿で横切る人の姿が見える。風を切って歩いているようでなんともかっこいいではないか。湖畔にはいくつもの建物がならび門前町が形成されていたことが見てとれる。明治期前まではこの地に訪れる人間は男体山を御神体と崇める登拝修行の信者と彼らの世話をする茶屋の従業員くらいだったようだが、明治になり女人禁制や牛馬禁制が解かれると日本人だけでなく西洋からの観光客も訪れるようになり、中宮祠周辺は多くの人で賑わったそうだ。

 そして現在の景色、2023年に筆者が撮影した二荒山神社中宮祠の唐銅鳥居と見比べてみると、湖岸の景色が大きく変わっただけでなく、絵葉書に写る当時の街並みの方が活気があるように見えてしまうのは筆者だけだろうか。

●現在の景色「二荒山神社中宮祠の唐銅鳥居」

絵葉書と近い構図で撮った二荒山神社中宮祠の唐銅鳥居。鳥居は今も昔も中禅寺湖を見守るように立っている
二荒山神社中宮祠の唐銅鳥居(浜鳥居ともいう)は国の需要文化財に指定されている

●【MAP】二荒山神社中宮祠 銅製鳥居

 

■アンティーク絵葉書5 約100年前の中禅寺立木観音の鳥居(歌ヶ浜)

絵葉書には「中禅寺歌ヶ浜」と書かれている

 最後に紹介するのは、中禅寺立木観音(ちゅうぜんじたちきかんのん)にある鳥居を写した絵葉書である。大正7年(1918)~ 昭和7年(1932)に印刷されたもの。

 中禅寺は日光開山の祖である「勝道上人(しょうどうしょうにん)」によって建立されたといわれており、もともとは「アンティーク絵葉書4」で紹介した二荒山神社中宮祠の境内にあったお寺である。

 ところが明治35年(1902)9月に関東地方を襲った台風によって男体山で山津波(土砂崩れ)が発生。その際に中禅寺の御本尊であった立木観音(十一面千手観音菩薩像)が巻き込まれてしまい湖に沈んでしまったのだが、奇跡的に無傷のまま水面に浮かび上がり歌ヶ浜に流れ着いたのだそうだ。

 そして、これをきっかけに歌ヶ浜の地に再建されたのが現在の中禅寺である(移転の理由は他にも神仏分離の影響もあったようだ)。その中禅寺の前(湖畔)に建てられていたのが絵葉書に写っている鳥居である。

 ちなみに、絵葉書に写っている和船(帆船)は明治~昭和の初期にかけて水上交通の主役として活躍(その後、モーターボートも導入されるようになった)。当時はここ中禅寺立木観音(歌ヶ浜)と二荒山神社中宮祠は船から上陸して参拝できる「社寺廻り」の観光コースとして人気だったらしく、船に足をかけてポーズを決めている男性は観光ガイドも兼ねた船頭ではないかと筆者は想像している。こんな想像を巡らせるのもアンティーク絵葉書の楽しみ方のひとつといえよう。

 そして、2023年にアンティーク絵葉書の構図に合わせて筆者が撮影したものと比較すると、絵葉書の風景とはまるっきり違っていた。

●現在の景色「中禅寺立木観音の鳥居」

絵葉書を参考にして撮った写真

 ここまで違うのはなぜなのかを調べてみたところ、鳥居があった場所は埋め立てられてしまっていたことがわかった。現在、埋立地は「歌ヶ浜第一駐車場」としてわれわれ観光客が利用する場所であり、罰が当たらないのかと少しだけ不安になってくる。ちなみに、鳥居のあった延長線上には遊覧船の大桟橋がある。

現在の中禅寺立木観音周辺のようす
湖上(遊覧船)から眺めた中禅寺立木観音のようす。手前に写るのが遊覧船の大桟橋

●【MAP】中禅寺

 

■気になる土地の絵葉書を探してみよう

 今回、アンティーク絵葉書の風景となっている場所に実際に赴き、現在のようすがどうなっているのか? 昔と今を見比べてみたが、みなさんはどう感じただろうか。日光の歴史に詳しい人はともかく、初めて見た人はかなりの違いに驚いたのではないだろうか。

 みなさんにもきっとお気に入りの観光地や地域、地元など、過去にどんな歴史があったのか気になる土地があるはずである。そうしたスポットはアンティーク絵葉書になっている可能性があるので、興味のある方は一度探してみるといいだろう。そして、それがもし見つかった場合には、ぜひ昔と今の姿を見比べてもらいたい。きっとこれまで以上にその土地に親近感を覚えるはずだ。