■ヒマラヤからインド経由、日本行き

 ここで昼食休憩だというのでロティとタルカリ(おかず。ここではジャガイモと人参の炒め煮だった)の簡単な食事を摂って、少しまわりを散歩してみると、雑貨屋の店番らしきふたりの子どもたちが興味深げに僕のことを見つめ、はにかんだ笑顔を向けてくる。そしてなかなかきれいな英語で、

 「僕たちのお父さんはいま、日本にいます」

 と話しかけてきたのだ。

 「トーキョーのカレー屋さんで働いています。叔父さんも、叔父さんの弟も日本です」

 聞いていた通りだった。バグルン一帯の山間部から、日本に出稼ぎに行く人がきわめて多いのだ。もともと“グルカ”を輩出する土地柄だったという。精強で鳴らしたネパールの傭兵軍団だ。イギリス軍やイギリス連邦の国々、インドやシンガポールなどでも国防に携わっている。「海外で働く」という素地があった土地なのだ。

ヒマラヤ山麓の村のあちこちから日本語が聞こえてくる!【越えて国境、迷ってアジア 「アフターコロナのネパール〈4〉カレー移民の里バグルン」】

 そのため隣接するインドで出稼ぎをする人もたくさんいた。ネパール語とインドのヒンドゥー語は近い言語だし、文化も似ている。それに両国の国民はパスポートなしで行き来でき、就労にも特別な許可が要らない。だからインドでおおぜいのネパール人が肉体労働をはじめさまざまな分野で働いているが、とりわけ飲食が多い。インドで日本人バックパッカーが世話になるような食堂でも、ナベを振るってカレーを作っているのはネパール人だったりする。

 で、インドで働いているバグルン出身のネパール人コックの中から、日本に行く人が出てきたのは80年代ではないかといわれる。すでに日本でレストランを展開していたインド人に呼ばれたケースが多いようだ。そして彼らが故郷の同胞や親戚を呼び寄せるようになり、その人たちがさらに次の出稼ぎを呼び……と、どんどんバグルン出身のコックと、その家族が日本に増えていった、という流れのようだ。ヒマラヤ山麓のこの辺境に、国境を越えた日本とのつながりがあるのだ。

 「君たちも、大人になったら日本に行きたい?」

 そう聞くと、ふたりは恥ずかしそうに頷くのだった。

このふたりの親も親戚も、日本でカレー屋のコックとして働いているそうだ