すでに令和4年。平成がどんどん遠ざかっていく。思えば平成の30年間は、スキー文化が激変した時期だった。インフラが変わり、価値観が変わり、風景が変わった。スキーを取り巻く様々なチェンジの過程を駆け足で振り返ってみたい。

平成のスキー界で最大のイベントといえる長野オリンピックのロゴをデザインしたマンホール

■冬季オリンピックのレガシィで長野が便利に

 この30年間は、今のスキーヤーに必要不可欠な、ないと激しく困る、アレやコレやが続々と生まれていった期間だった。

 例えば交通インフラだ。さすがに平成元年の時点で関越道、東北道は全線開通していたが、上信越道はつながっていなかった。この高速道路は、98(平成10)年の長野オリンピックに向けて急ピッチで工事が進み、93(平成5)年に藤岡IC=佐久IC間が開通。その翌年には佐久平PAに直結した佐久スキーガーデン『パラダ』がオープン。以後、五輪に間に合わせるように、白馬にアクセスしやすい長野IC、志賀高原に近い信州中野ICまでがつながった。加えて高速道路を降りてからの一般道も整備され、長野方面のスキー場は格段に便利になった。

 奥美濃エリアのスキー場が名古屋や岐阜から容易にアクセスできるようになったのも、東海北陸道の郡上八幡IC=白鳥IC間が開通した97(平成9)年以降のことである。

 平成初期にスキーヤーの人気のクルマは、三菱の「パジェロ」のようRV車や、スバルの「レガシィ」などのワゴン車だった。その後ミニバンが流行り、近年はSUVが主役になっている。

 電車ルートも便利になった。現・北陸新幹線、以前の通称“長野新幹線”の登場だ。こちらも五輪前年に東京駅=長野駅間が開通した。新幹線絡みでいえば、駅直結のガーラ湯沢の誕生も平成になってからだった(90年)。

 その他、平成初期はスキー場のオープンラッシュが続いた。星野リゾート アルツ磐梯(92年)、グランデコスノーリゾート(92年)、NASPAスキーガーデン(92年)、ロッテアライリゾート(93年)、スキージャム勝山(93年)、マウントジーンズ那須(94年)、黒伏高原スノーパークジャングル・ジャングル(96年)あたりは平成デビュー組(スキー場名は現在のもの。以下同)。ただし、その現象も、高鷲スノーパーク(99年)で打ち止めとなっている。

当初は「長野新幹線」と通称されていた「北陸新幹線」。写真は東京-長野間を走る「あさま」

■カービングスキーは、30年前に存在しなかった

 ギアも大きく変わった。平成初期はカービングスキーも、ロッカースキーも存在しなかった。ツインチップも、ファットスキーもないに等しかった。では、スキーヤーはどんな板に乗っていたのか? サイドカーブがあまりない、細長い板だ。取り回しづらい2m級板を持つことがステータスに感じる向きもあった。

 一方、ブーツはそれほど大きなフォルムの変革はナシ。一時、容易に着脱ができる、リアエントリータイプが大流行したが、現在はレンタル用ブーツとして存在している程度である。マテリアルとしてのスキーブーツは、30年前の時点である程度完成していたということだろうか? これはポールにもいえることだ。

 また、ビンディングは、ターンテーブルタイプのものはほぼ姿を消した。一方で、フロントピースとリアピースの間にプレートのあるタイプや、ピンテックビンディングなどが普及している。

 ウエアはどうか? それ以前に流行した単色のワンピースとは正反対に、多数のカラーを使った派手なプリントの流行から始まり、以後は多様化、細分化が進み、とてもここで書き尽くせない。ただ、30年前のハデハデウエアを着ている、サスティナビリティ重視のスキーヤーを今も見かける現実もある。