■対応に“差”をつけず、すべての登山者を平等に

1969(昭和44)年、開業50周年のときの常念小屋《写真提供:常念小屋》

 2代目の恒男は、建物の増改築や、谷からの飲料水のポンプアップ(ほかの山小屋に先駆けての試みだった)、ヘリコプターによる物資輸送など、多くの登山者を受け入れられるように山小屋の環境を整備する一方で、登山者同士の交流が自然と生まれる「語り合える山小屋」であることを大切にしてきた。そんな山小屋経営のこだわりは、3代目の健一郎や、現在小屋番として山に入る雄太にも受け継がれている。

健一郎さんは山小屋のオーナーでありながら、建築家でもありますよね。

健一郎「子どものころは夏休みを山で過ごし、山小屋に集まる芸術家や写真家に影響を受けて、東京藝術大学の建築科に進みました。10年ほど東京の設計事務所で働いていましたが、親父とは一つだけ約束をしていて。それは建築家として独立するときには、松本に事務所を構えること、でした。山小屋のことは親父や、支配人であるおじの山崎直人が切り盛りしていましたが、長男として常に小屋の状況を把握でき、いざというときにはすぐに小屋に上がれるところにいなさい、ということだったんです」

建築家であることは、山小屋経営にプラスになっている?

健一郎「木造の建物って30~40年ぐらい経つと、どうしてもくたびれてくるんです。でも、30年に1回ぐらいちゃんと手を入れてやると長く使えるという強みもある。建物の様子を見て、こまめに修繕ができているのは、自分が建築の仕事をしているからこそでしょうか」

屋根の補修作業を行う《写真提供:常念小屋》

一方、雄太さんは高校卒業後、すぐに小屋番になる決心をしていますよね。

山田雄太さん(以下、雄太)「私が高3のときにじいちゃんが亡くなって、親父が社長になったのですが、親父は設計事務所をやっていたし、支配人の山崎も70代と高齢になってきて、これからどうするんだろうと気がかりではあったんです。私自身は大学に行くつもりはなく、どこかに就職しようと考えていたので、常念小屋がそういう状況なら自分がやってみてもいいかなと」

山小屋の屋根に上り、電話をかける雄太《写真提供:常念小屋》

高校を出てからの4年間、涸沢ヒュッテで働いていたのは?

雄太「すぐにうちの小屋に入っても天狗になるだけだから、ほかの山小屋で修業をして来いと、親父と母に言われて。親父がヒュッテの小林銀一さんと山口孝さんに電話して、話を通してくれたんです」
健一郎「山小屋の仕事って、登山者の応対だけでなく、食事を作ったり、建物や設備を直したり、登山道を補修したり、遭難救助をしたりと、多様なスキルが求められるじゃないですか。孝さんからは、大学に4年間通わせるつもりでヒュッテに預けてほしい、山小屋の人間になるにはその方が絶対に役立つからと言われました」

まさに「涸沢大学」ですね(笑)。

健一郎「先ほど、穂高や涸沢に対する利一の思いをお話しましたが、親父もそれを受け継いでいたようで、横尾小屋での若手時代の横尾や涸沢、穂高での武勇伝をよく聞かされました。私が雄太の小屋番修業を涸沢ヒュッテにお願いしたのも、利一や恒男のことが頭の片隅にあったのかもしれませんね」

雄太「涸沢ヒュッテの銀一親分からも、ヒュッテ建設時のひいじいちゃんへの感謝や、若いころのじいちゃんとの思い出を何度も聞かせてもらいました」

山小屋を営むうえで、山田家として代々受け継いでいる考え方、大切にしていることはありますか?

健一郎「昭和の登山ブームのころ、ほかの多くの山小屋では個室料金を設けたりして、登山者へのサービスに“差”をつけるようになりました。でも、うちはやらなかった。お金があろうがなかろうが、下でどんな仕事をしていようが、汗をかいて登ってくる人たちはみな同じ。山小屋に泊まるときは全員が平等な関係であってほしい。そうした考え方は、利一や恒男の時代から変わってないです」

雄太「常念小屋は、どの部屋の料金が高くて、どの部屋が安いという部屋のランク分けはしていません。食堂を、食事の時間帯以外は開放しているのも、登山者同士で自由に交流して仲良くなってもらいたいから。スタッフがお客さんと一緒にお酒を飲んで夜遅くまで盛り上がってしまい、ほかのお客さんから注意される、なんてこともあります(笑)。決して褒められたことではありませんが、それだけスタッフとお客さんの距離が近いということなんです」

理想の山小屋のあり方について、自らの考えを熱心に語る雄太