■すべては小さな夢から始まった
旅に出る前の私たちは、いわゆる普通の生活を送っていました。打ち込める仕事、家、そしてソファがあり、冷蔵庫にはたくさんのスイスチーズ。安定した暮らしでした。
でも、心のどこかに、ある夢がずっと浮かんでいました。私たちは山、そしてそこから眺める広大な風景が大好きで、自然の中で過ごす時間が一番幸せでした。そんな風景を求め、世界をゆっくり旅できたら……。その夢はある日、夢ではなくなりました。私たちはたくさんの好奇心を自転車に積み込み、走り出したのです。
もちろん、困難もありました。世界は思っていたよりずっと大きいのだと気づきました。寒い夜には不安が心に忍び寄り、ときに「この道は、私たちには大きすぎるのではないか?」と思ったこともあります。そのときの迷いや葛藤については、私の本『私たちは遊牧民として生きることにした(ぞうさん出版刊)』にも書き残しました。
けれど、自分の好奇心に従って、世界に心を開いてみると、困難の先には必ず美しい学びがありました。砂漠に沈む静かな夕日、遠い地平線へ向かって走る穏やかな喜び、出会ったばかりの人に招かれて過ごした夜。私たちは、世界は恐れる場所ではなく、心を開いた人に静かに応えてくれる場所なのだと気づきました。
日の出とともに目覚め、森や山、砂漠を自転車で進んでいくと、人間もまた自然の一部であるという大切な感覚が戻ってきました。自然は訪れるための場所ではなくなり、私たちの家になったのです。
■赤ちゃんが生まれても、旅は終わらなかった
2013年、最初の娘ナイラがマレーシアで生まれたとき、多くの人は旅が終わると思ったでしょう。でも、それは新しい章の始まりでした。私たちは赤ちゃんとともに旅を続けました。自転車トレーラーの中にハンモックを吊るし、娘は眠りました。こうして夫婦ふたりの旅は、家族の暮らしへと変わっていきました。
娘たちは、多くの子どもが本でしか知らない場所で育っています。ナイラはカンボジアのアンコールワットの前で、次女フィビーはモンゴルの遊牧民のゲルの中で最初の一歩を踏み出しました。彼女たちはゴビ砂漠を自転車で横断した、最年少の子どもたちになりました。彼女たちにとって世界は、国境で区切られたものではありません。山や川、文化、そして人々がつながるひとつの大きな風景なのです。
日本は、私たちにとって特別な場所のひとつです。日本の人々の優しさは、ささやかな仕草の中に表れます。静かな微笑みや、相手を思いやる気遣い、そっと手渡される贈り物。何年も前、ある日本の家族が、子どもの健やかな成長を願う鯉のぼりを私たちに贈ってくれました。それ以来、私たちの自転車の後ろにはいつも鯉のぼりが風にはためいています。
<パッシュファミリー(Pasche Family)>
2010年、故郷スイスからニュージーランドを目指して自転車の旅に出発。以来、彼らは国境も地平線も越え、自然と調和する遊牧的な生き方を心から受け入れ、歩んでいる。旅の途中で2人の娘(2013年に長女ナイラ、2017年に次女フィビー)が誕生。移ろいゆく空の下、道の探求者である彼らは、地図にも星にも頼らず、ただ風のささやきと大地の呼び声に導かれて進む。山を越え、市場を通り抜け、沈黙と嵐をくぐり抜けながら、これまでに走破した距離は2025年時点で10万kmを超える。「生きる」「探求する」「分かち合う」、そして「勇気を与える」を旅の羅針盤として、これまでに世界15か国でスローライフをテーマに講演活動を行ってきた。また、エコツーリズムやソフトモビリティのコンサルタントとしても活動。アウトドアライフのアンバサダーとして、子どもたちと自然とのつながりを取り戻し、健やかな成長を支える活動にも力を注いでいる。
2019年および2023年にモンベル・チャレンジ・アワードを受賞。2023年にはジャパンエコトラック公式アンバサダーに任命された。近著に『私たちは遊牧民として生きることにした(ぞうさん出版刊)』がある。
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