■残雪を踏みしめ、森の奥に佇む神秘の湖へ

 教会を後に、そこからさらに一時間ほど深い針葉樹の森の中を進んでいく。行き先には所々にまだ雪が残っていて、中にはまだ柔らかい雪の塊もある。雪を踏み締める感触を楽しんでいると、突然、「パキッ」と小枝が弾けるような音がした。足を止め、息を潜めて周りを見回す。すると、針葉樹の枝が重なるカーテンの向こうに、小さな野生の小鹿がぴょんぴょん跳ねている姿が見えた。なんの警戒心もなく、木漏れ日が注ぐ残雪の上を夢中で跳ね遊ぶ小鹿を見つけて、あまりの愛らしさに胸がいっぱいになった。

 ひとしきり遊んで森の中へ消えて行った小鹿の姿を見送ると、また登山道へ戻りさらに森の奥へとどんどん足を延ばす。高い針葉樹の森が開け、目の前にポッカリと現れたのが目的地の「黒い湖」、ブラック・レイクだった。その名のとおり湖面は深く暗く、まだ氷が残る湖面に周囲の森と空をそのまま映し出している。辺りには人の気配がほとんどなく、ただ鳥のさえずりと大きな蛙の合唱が響き渡るのみ。

まだたくさんの雪が残る登山道。ばったり野生動物に出会うこともしばしば
高いカラマツの森が太陽の日差しを防いでくれる。小鳥の囀りと針葉樹の香りに包まれた癒しの空間が広がる
クロッカスはサン・ヴィジリオ山に春の訪れを告げる植物。山の至る所に紫と白のクロッカスが咲き誇っていた。夏にはアルペンローズの大群落が見られるという

 湖畔のベンチに腰を下ろし、持参したブレッツェルとサラミを食べながらのんびりとランチを楽しむ。地元の噂では、この湖には古くから精霊や伝説の話も伝わっており、月夜に願いを込めると叶うという言い伝えもあるのだとか。そんな話も、この静寂の中なら自然に信じたくなる。サン・ヴィジリオ山は、季節ごとに違う表情を見せてくれる場所だ。今度は秋、木々が色づき、湖が黄金に染まる季節に、またここを歩いてみたいと思った。

文・写真/田島麻美