【山岳偉人伝 入門編】
このシリーズでは、山岳の世界で偉大なる功績を残した人物の軌跡を、簡単にまとめていきたい。
■第5回 人類で初めて世界最高峰に登ったシェルパ テンジン・ノルゲイ
ヒマラヤの高峰への登山には、シェルパのサポートなしには考えられない。「シェルパ」とは、ネパールの少数民族のひとつの名前だが、仕事として登山支援をする人たちの総称でもある。エドモンド・ヒラリーとともに、人類で初めてエベレストに登頂した人物テンジン・ノルゲイもシェルパのひとりだ。
テンジンは、マカルー山麓の小さな村で、13人兄弟の11番目として生まれ育った。少年時代に「エベレストを登りたい」との思いから家出をした経験もある。その後、ダージリンを拠点に、シェルパとしてエベレスト遠征隊に参加する機会を伺っていた。1920年代以降、世界の国の中でもエベレスト初登頂のプロジェクトを積極的に取り組んでいたのはイギリスだ。1921年以降、たびたび遠征隊を派遣している。当時はルートなども未開拓で、簡単に登頂とはならなかった。
そして、1935年に派遣された第五次遠征隊(予備調査が目的)に若き日のテンジンはシェルパとして初参加した。しかし、以後も人類は世界最高峰を攻略することはできず、第二次大戦の影響でしばらくの間、挑戦は中断となった。
■英国人登山家のエベレストゲリラ登山に参加?
この間のテンジンは、パキスタン領であるチトラル地方の山岳ガイドを務めるなどした。また、イギリスのアール・デンマンという登山家に乞われ、彼の個人単位でのゲリラ的(チベットに密入国)なエベレスト挑戦のサポートもしている。戦後の1949年、ネパールが鎖国を解き、ネパール側ルートの門戸が開かれる。逆に、中国の支配下となったチベット側は閉鎖されてしまう。このことで、イギリス以外の国のエベレスト登頂のチャンスが広がった。
1951年、大国の意地としてなんとか初登頂を果たしたいイギリスは、ネパール側からの山頂へのルート探索を実施した。翌年、春と秋にテンジンはネパールのルートから挑んだスイスの隊に参加する。春には、レイモン・ランベールという登山家とともに、それまでの最高高度8611mに達している。そして、翌1953年、〝これがラストチャンス〟の意気込みでイギリスが遠征隊を派遣。ここに実績のあるテンジンが呼ばれるのは自然な流れだった。
■最後まで続いたヒラリーとの美しき友情
イギリス隊のベースキャンプから最初に頂上を目指したチームは酸素不足で撤退。次に挑んだのがヒラリーとテンジンのチームだ。そして、5月29日午前11時30分に世界で初めての登頂に成功した。テンジン38歳(諸説あり)のとき、7度目のエベレスト挑戦だった。
この偉業により、2人は登山の歴史に名前を残すことになる。なお、「どちらが先に頂上に足を踏み入れたか?」と質問されるたびに、2人は「同時だ」と答え続けている。名声を得たテンジンは、以後もヒマラヤ登山をサポートする仕事を続け、自らの会社も興した。なお、孫のタシ・ワンチュク・テンジンは、2002年にエベレスト初登頂50周年を記念し、ヒラリーの息子であるピーターとともにエベレストに登頂している。
テンジン・ノルゲイ
Tenzing Norgay
[ 1914年5月29日 ~ 1986年5月9日 ]
「ヒマラヤのタイガー」なる異名を持つ。正式な誕生日は不明だが、エベレスト登頂日を公称の誕生日としている(諸説あり)。ヒラリーとの友情は両者が世界的著名人となってからも続き、1986年のテンジンの葬儀には、ヒラリーは外国人でただ一人参列している。
●テンジンの世界最高峰へ7度の挑戦
▶1935年:20歳でイギリスの第五次遠征隊に参加。エベレストに初チャレンジする
▶1936年:イギリスの第六次遠征隊に参加も、早くにモンスーンが到来し、大きな成果は得られず
▶1938年:小規模に編成されたイギリスの第7次遠征隊に参加。天候悪化で隊は登頂を断念
▶1947年:登山家アール・デンマンの個人単位でのゲリラ的なエベレスト挑戦をサポート
▶1952年:スイスの遠征隊に同行。ネパール側初の2度のチャレンジに加わる。当時最高地点の8611mに到達
▶1953年:イギリスの遠征隊に加入し、ヒラリーとともに人類初のエベレスト登頂を果たす