相当な歴史好きでも、内田城と聞いても「それどこ?  誰の城?」という反応がほとんどだろう。四国を統一した土佐の戦国武将、長宗我部元親ゆかりの城ではあるのだが、おそらく長宗我部ファンでもほぼ知らないのではないか。内田城が位置するのは高知県東洋町。高知市から約100kmの県内で最も東にある小さな町、いわば土佐国の極東。隣の阿波国(現・徳島県)との国境を守る、いわゆる“境目の城”だ。

本拠の岡豊城に立つ長宗我部元親像(写真AC)

 長宗我部元親ゆかりといっても、その関係性は限りなく薄い。1575(天正3)年に元親がこの地に侵攻してくるまでは、地元の豪族・野根家の城だった。その後は不明だが、おそらく国境の防衛のため、元親の家臣が城を領したのではないだろうか。

 というのも国境の向こうの阿波といえば、1585(天正13)年、四国に侵攻してきた羽柴秀吉と、元親が激戦を繰り広げた地。いわゆる「四国攻め」の最前線だ。結果的に争乱は阿波から土佐側へは及ばなかったが、「もしも」に備えて内田城がガッチリ固められたのでは?

 そんな想像を膨らませつつ、知られざる山城へ。

南麓から見た内田城。中央のピークからやや左に下ったあたり

■急登を避け、谷間へ延びる道を進むが……

 内田城があるのは東洋町の野根というエリア。野根川河口から数km遡った左岸にある。数軒のみの小集落にある了徳寺の東脇の山上。比高は110m。

※比高(ひこう):麓から城の最高地点までの標高差

了徳寺の山門には梵鐘がぶら下がっていた
了徳寺から見上げる内田城

 尾根先から登って行った先が城域だが、明確な登山口はなく、おそらく獣道。角度も見るからに登りが急そう。谷沿いに道が延びていて、こちらの方が勾配がゆるやかそうだし、道も明確そうなので、谷を進むことに。

谷沿いを進む道。真正面に堰堤

 と思ったら、それは最初だけだった。道がしっかりしているのは堰堤から数10m程度。踏み跡はしっかりあるのだが、ほとんど急傾斜の山肌にへばりつくような感じに。わずかに水の流れる谷底との落差も徐々に広がってゆく。具合の悪いことに、城があるのは対岸なのだが……。

道幅は1mにも及ばないほど

■目指す城を前に涙の撤退

 悪い予感はあたるもの。なんと目の前で道が突然途切れてしまった。

道だけでなく斜面ごと崩壊

 これでは「道なき道」だ。笑えない。姿勢を低くし、おそるおそる谷の方へと下ってゆく。幸い、谷を流れる川は浅く、岩を飛び石のように難なく渡渉。対岸に到達したのは良いのだが、目の前の絶壁を見て絶句。

目指す内田城ははるか頭上

 はるか頭上の稜線が城のはずだが、これを直登するのはムチャすぎる。万一滑落してしまったら、谷底に転がる岩に真っ逆さま。打ちどころが悪ければ即死だ。

 なんとか勾配のゆるそうなところ、木の根など足元がしっかりしているルートを探しつつ、迂回しながらしばらく格闘してみたが、なかなか厳しい。斜面は砂地なだけでなく、岩がそこかしこに転がっており、浮石だらけ。谷沿いにドン付きまで登って行こうかとも考えたが、岩や倒木だらけ。

 これは無理だ。無念だが、撤退を決断。

行く手を阻む急斜面と岩だらけの谷間

■別ルートで再チャレンジし、無事城内へ

 往復で約30分を徒労に費やし、再び了徳寺まで戻ってきた。脇の山肌を探すと、ヤブの切れ目を発見。目の前の急勾配を恐れず、初めからこちらを目指すべきだった。

尾根先からの登山口

 想像通り急勾配だが、つづら折れの道でしっかり比高を稼いでゆける。身体はキツいが、この安心感。しばらく行くと尾根幅が広がり、歩きやすくなる。転がり落ちる心配もない。

尾根上に延びる道

 登り始めて10分ほどで、目の前に明らかに人工的な地形。尾根を分断する堀切だ。すなわちここからが内田城なり。城の南西端にあたる。しっかりと両脇に竪堀も従えていて本格的だ。竪堀は山城では埋もれがちだが極めて明瞭。特に南側の竪堀は実に見事だ。

※堀切(ほりきり):尾根に入れられた鋭いV字状の切れ込み

南西端の堀切
堀切に付属する北側の竪堀。先ほどの谷に向けて落ちている
堀切に付属する南側の竪堀。半円状の形状がしっかりと残る

 初っ端からこの遺構ぶり。これは期待できそうだ。