■京極高次の意地と執念
結果的に大津城は西軍の大軍を足止めし、徳川家康は関ヶ原で大勝する。数日後、大津城へ着いた家康は高次の功績に感激し、井伊直政を高野山へ呼びに行かせた。
京極高次は当時から「女の七光り」などという、不名誉なあだ名がある。しかし、姉の京極龍子が豊臣秀吉の側室になったことで離反の罪を許され、その後も城持ち大名になるなど出世している。さらに秀吉の側室で秀頼の母・淀殿の妹・初を正室にできたことで、ご祝儀的に大津城城主となった。
近江源氏の流れを汲む京極家の再興と存続のため、我慢して秀吉に仕えた京極高次が、なぜ北陸進軍の途中、木ノ本で突如兵を返したのか。
実は本隊の大谷吉継軍は、木ノ本のあたりで石田三成の指令で引き返し、美濃へ向かうべく進路を変更している。このままでは加賀の前田の大軍と戦うにはあきらかに戦力不足で、全滅の恐れもある。高次は考えただろう。京極家のために、自分がこんなところで終わるわけにはいかない。木ノ本の山の上からは、びわ湖対岸の海津や今津の浜が見える。
海津の寺には、かつて若狭を治めた武田元明が眠っている。武田は姉の龍子の嫁ぎ先。女好きだった秀吉はひと目で龍子を気に入り、名門出身の美女龍子を我が物にするべく、夫の元明に謀反の罪を着せ、海津の寺で詰め腹を切らせた。その現場を改めて眺めながら、秀吉への憎悪や京極家の存続を考え、兵を返したのではないのか。
徳川家康は、関ヶ原に勝利をもたらした大津城天守を「縁起がよい」と彦根へ移築。情けない男のイメージだった京極高次は、最後に意地と執念を見せた。
明治の廃城令で全国ほとんどの城は解体されたが、たまたま彦根城に立ち寄った明治天皇のひと声で彦根城は生き残った。そして、戦争の空襲でも焼失することなく、私たちは奇跡的に今意地と執念の天守を眺めることができているのだ。
●特別史跡彦根城跡
・住所 滋賀県彦根市金亀町1-1
・電話 0749-22-2742
・ホームページURL https://hikonecastle.com/
※営業日時はホームページよりご確認ください
※この記事の情報は2022年2月現在のものです。内容が変更される場合もありますので、最新の情報はリンク先のHPでご確認ください。