滋賀県彦根市の国宝・彦根城。関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、徳川四天王のひとり井伊直政に命じて造らせた、大阪方面監視のための城だ。

 放送中の大河ドラマ『どうする家康』でも登場する、板垣李光人演じる井伊直政。大津城の天守を移築することで、工期の短縮に成功したといわれている。しかし、この優美な天守の現存には、ある戦国武将の執念があったのはご存じだろうか。

■大津城を移築した、家康の本当の狙い

長屋風の天秤櫓(てんびんやぐら)。左右の石垣の積み方が異なり、時代が違うことが伺える(撮影:かのまお)

 大津城の天守移築を命じた徳川家康。井伊直政の進言もあったと言われているが、目的は工期の短縮のみではない。大津城をこのまま廃城にしたくないと考えた家康は、縁起のよい天守を彦根で使うことを考えたとされている。

 大津城は関ヶ原の合戦時、西軍1万8000ともいわれる大軍に囲まれ、総攻撃を受けた。立花宗茂の大砲まで打ち込まれ、悲惨な姿になって降伏・落城している。

 では、なぜそんな大津城が「縁起がよい」のか。

■大津城籠城戦

彦根城天守は、中央部を凸型に、両端部を凹型の曲線状にした唐破風(からはふ)となっている(撮影:かのまお)

 大津城の城主、京極高次は、関ヶ原合戦の直前、石田三成の指示で大谷吉継軍に続いて北陸方面へ進軍していた。つまり西軍だ。

 それが近江と越前との国境、現在の木ノ本あたりへ差し掛かったところで、突如兵を反転。びわ湖を船で南下し、大津城へ帰り着き、ただちに籠城準備に入ったとされている。西軍を裏切り東軍に加担するためだ。

 とはいえ、大津城は守りに強いとは言えない平城、しかも西軍1万8000の大軍に対し京極高次軍は3000足らずの兵。防御はあっという間に崩され、大砲は天守に命中。西軍は何度も使者を送り、降伏を促した。

 しかし、京極高次は降伏を拒否し続けた。1週間にわたって抵抗を続け、降伏を受け入れた日が、関ヶ原合戦の当日。しかし、それを知らない京極高次は城を守り切れなかったことで、その場で髪を落とし、武士をやめそのまま高野山へ向かったとされている。