みなさんは「アンティーク絵葉書」というものをご存じだろうか? 明治、大正、昭和(おもに戦前)の時代に印刷・発行された絵葉書をこう呼ぶのだが、当時の風景や風俗、美術、文化などを題材にしたものが数多くあり、とても興味深いのだ。

 筆者は地元の栃木県にある日光が大好きでよく訪れている。何度も通っているうちに日光の歴史について興味をもち、当時の様子を垣間見ることができるアンティーク絵葉書を集めるようになった。

 今回はそんな筆者のコレクションの中から、およそ100年前の日光・中禅寺湖周辺の様子を写した絵葉書を5枚厳選。その風景が今現在どうなっているのか? 現地に足を運んで絵葉書と現在の風景を見比べてきたので紹介したい。現在の風景しか見たことがない人は、昔の中禅寺湖周辺はこんな風だったのかときっと驚くことだろう。

今回紹介するのは日光・中禅寺湖周辺の5か所
・馬返
・明智平
・二荒山神社中宮祠の大鳥居
・二荒山神社中宮祠の唐銅鳥居
・中禅寺立木観音の鳥居

今回紹介するのは日光・中禅寺湖周辺の5か所

 ちなみに、絵葉書が印刷された年代の特定法については、一般的に利用されている以下の方法を用いた。

・宛名面に線がないもの:明治33年(1900)~ 明治40年(1907)に印刷
・宛名面の三分の一に線が引かれたもの:明治40年(1907)~ 大正7年(1918)に印刷
・宛名面の二分の一に線が引かれたもの:大正7年(1918)~ 昭和7年(1932)に印刷
・「きかは便郵」から「きがは便郵」へ濁音読みに変わる:昭和8年(1933)~ 昭和19年(1944) 
・「きがは便郵」が「郵便はがき」と左読みに変わる:昭和21年(1946)以降

■アンティーク絵葉書1 約90年前の「馬返」

今から90年前の景色

 最初に紹介するのは、日光いろは坂ののぼり口手前にある「馬返(うまがえし)」から撮影した絵葉書。大正7年(1918)~ 昭和7年(1932)に印刷されたもの。

 馬返とは山道が険しいあまりに、そこから先は馬では進めなくなるような土地に付けられる地名。そこから先は神聖な場所のため、牛馬は入れないという意味合いもあったようだ。

 絵葉書には大きな鉄橋とレール、そしてその先の山の中腹にはトンネル状の構造物が見てとれる。この写真が何を写したものなのかみなさんはお分かりだろうか?

 これは昭和7年(1932)~ 昭和45年(1970)まで営業していた「日光鋼索鉄道(にっこうこうさくてつどう)」である。鋼索とは鋼製のワイヤーロープのことで、いわゆるケーブルカーのことだ。

 このケーブルカーは、馬返と中禅寺湖の手前にある明智平(あけちだいら)を結んでおり、距離はおよそ1200m、高低差は430mほどあったという。絵葉書の中央下部にあるのが馬返駅で、右上隅に見える建物が明智平駅だ。

 中禅寺湖との行き帰りは現在、第一いろは坂(下り専用)と第二いろは坂(上り専用)の二つの道路を利用している。ところが約90年前、ケーブルカーが開業した当時はいろは坂がまだ一つしかなく(第一いろは坂の元となったもののみが存在)、増え続ける観光客などによっていろは坂は慢性的な大渋滞となった。これを解消するべくこの大規模なケーブルカーが誕生したそうだ。

馬返と明智平の位置関係

 そして、2023年に馬返駅の跡地近くから筆者が撮影したものを見てもらいたい。絵葉書の構図にできるだけ近くなるように撮影したつもりなのだがいかがだろうか。

●現在の景色「馬返」

絵葉書を参考に馬返駅の跡地から撮った写真。現在は国道120号線が走り、この先にいろは坂がある

 撮影した写真を見るかぎりでは、ケーブルカーが走っていた痕跡は微塵もない。今から90年近くも前にケーブルカーのような大規模施設がつくられていたとはとても想像がつかない。

 現在はレールや鉄橋、駅舎の痕跡はなく、馬返駅があった場所が大きな更地となっているだけで、駅の跡地だけに当時を偲ぶことができる。Google MapやGoogle Earthの衛星写真を見てみると、ケーブルカーの線路跡がわずかに確認できるので興味のある方はご覧いただきたい。

●【MAP】馬返駅跡地

 

■アンティーク絵葉書2 約100年前の明智平

100年前の男体山。絵葉書には「明智平ケーブル駅より男体山の展望」と書かれている

 次に紹介するのは、中禅寺湖の手前にある「明智平(あけちだいら)」から撮影された絵葉書。大正7年(1918)~ 昭和7年(1932)に印刷されたもの。

 明智平とは、先に紹介した日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の馬返駅と対をなす明智平駅があった場所である。

 ケーブルカーが開業した同年に、明智平~中禅寺湖間を結ぶ自動車専用道路も開通。絵葉書に写っている自動車は、自動車専用道路を往来する乗合バスである。奥に見える山容は、左の大きな山が奥日光のシンボル「男体山(なんたいさん)」、右は「大真名子山(おおまなこさん)」である。

 この日光鋼索鉄道(ケーブルカー)と乗合バスが営業を開始したことで、一度に多くの乗客を短時間で奥日光へ送り届けることができるようになった。なかでも日帰りの観光客が飛躍的に増加したそうだ。

 そして、筆者が2023年に明智平駅の跡地から撮影したものと比べて見てほしい。当然のことと言ってしまえばそれまでだが、山の景色は90年近く経っても大きな変化は見られない。

●現在の景色「明智平」

絵葉書を参考に明智平駅の跡地から現在の男体山を眺望

 現在、明智平駅の跡地はトイレ施設となっており、その裏手には日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の遺構がある。解説パネルなどが設置されているので、興味のある方は一度見てみるといいだろう。

明智平にある日光鋼索鉄道(ケーブルカー)の遺構。以前はこの場所とふもとにある馬返駅とがレールで結ばれていた

●【MAP】日光鋼索鉄道遺構

 

■アンティーク絵葉書3 約100年前の二荒山神社中宮祠の大鳥居

100年前の中禅寺湖の大鳥居。絵葉書には「日光中禅寺入口」と記されている

 3つ目に紹介するのは、二荒山神社中宮祠(ふたらさんじんじゃちゅうぐうじ)にある大鳥居(おおとりい)を写した絵葉書。大正7年(1918)~ 昭和7年(1932)に印刷されたもの。

 湖と大鳥居のセットは、おそらく中禅寺湖を訪れた人なら誰でも見覚えのある景色ではないだろうか。

 このアンティーク絵葉書を参考に2023年に筆者が撮影したのが、誰もが見覚えのあるあの場所、中禅寺湖の入口に立っている朱色の大鳥居である。

●現在の景色「二荒山神社中宮祠の大鳥居」

現在の中禅寺湖入口の大鳥居。左に見えるのが中禅寺湖

 絵葉書に写る道路は砂利道で建物はすべて木造。今現在の様子しか知らない人にとってはきっと驚きの光景だろう。絵葉書のタイトルには「日光中禅寺入口」と書かれている。現代に生きる私たちもそうだが、昔の人たちもこの大鳥居を見て、ようやく中禅寺湖にたどり着いたと思ったのではないだろうか。

男体山を背景に大鳥居を撮影

●【MAP】二荒山神社大鳥居