戦国時代、日本全国無数にある里山には山城がいくつも築かれていた。だが長い年月で埋もれてしまい、今では存在すら忘れ去られている城跡がほとんどだ。しかしながら大きな合戦や事件が起こった城は、伝説として語り継がれ、市民の憩いの場となっていることが多い。今回はそんな城跡の山にまつわる筆者の体験談だ。
■人気の低山でも“いわくつき”の一面が
社会人になって間もない頃の話である。
当時筆者が住んでいたのは、とある田舎町と農村の境目あたり。家の近くには標高300mにも満たないが、人気の低山があった。ここは標高の割に眺望がよく、登山道はしっかり整備されている。したがって地元の小学校が遠足にも訪れるような難易度の低い山だった。
ただ難易度が低いのはメインルートのみ。メインルート以外はまったく整備されていない。加えて山の面積はかなり広く、道標も眺望もない。いわゆる深い山である。そしてこの山、実はいわくつきのスポットでもあった。
戦国時代、この山頂一帯にあったのは大規模な山城。跡継ぎがいなかった殿様は、山麓の菩提寺で長年子授け祈願をして、やっと産まれたのが姫だった。怒った殿様は本尊を蹴飛ばし破損させたという伝説が残っている。その後まもなく城は隣国から攻められ、殿様の一族は滅亡した。
現在、この山は心霊スポットとしても知名度が高い。それが滅亡した戦国大名一族に関連するものなのかは定かではないが、何かを見たという話はよく耳にする。
筆者は何度もこの山を訪れていた。自宅から最寄りの低山ということもあり、メインルートはもちろん、それ以外の険しいルートもほぼ歩きつくした頃である。ひょんなことから山麓の菩提寺から山頂の城跡に至る登山道が、廃道寸前ながらも現存していることを知った。
そこで涼しくなってきた初秋、雨の日を選んで、単独行での訪問を企画したのだ。雨の日を選んだのは、悪天候の山歩きの訓練ができるからである。現在筆者は低山専門であるが、当時は高山も登っていたため、暇があれば低山でさまざまなトレーニングをしていた。なお、当時はナビアプリもない時代。国土地理院地図とコンパスだけが頼りである。また、携帯電話のエリアマップは圏外。お守りとしてアマチュア無線のトランシーバーを携帯した。
なお、国土地理院地図にはこの時歩いた廃道寸前の「古道」どころか、寺から山頂の間に道すら記載なし。幸い寺の裏手から始まっている古道の入口は容易に見つけられた。土砂降りで視界も悪く、薄暗い道ではあったが、藪漕ぎするほど道は荒れておらず、意外とスムーズに中間地点まで到着できた。
時計を見ると昼前。このペースなら昼過ぎには登頂できそうである。ふと時計から目をあげると、10mくらい先を誰かが歩いているのに気付いた。よく見ると背の低い老婆だった。土砂降りの中、傘もささずに歩いている。白髪を日本髪に結っており、着ているのはボロボロになった木綿の着物。それは藍染の色が抜けたような灰色で、くたびれた剣道着みたいだ。そして裸足に草鞋を履いていて、テレビ時代劇『子連れ狼』の主人公「拝一刀(おがみいっとう」と同じような木製の乳母車を押している。時代劇から抜け出てきたようないでたちだ。