日本初の国立公園の一つとして1934(昭和9)年に誕生した「中部山岳国立公園」は、雄大な峰々が連なる北アルプスを擁し、これまで多くの人たちが登山や自然との触れ合いを楽しんできた。そんな日本を代表する山岳公園の歴史を振り返ったとき、重要な役割を果たしてきたのが山小屋である。山小屋は、登山者を迎え入れ、食事や憩いのひとときを提供するだけではなく、登山道の維持・補修、自然環境保全、遭難者の救助など、多岐にわたる仕事に関わってきたからだ。

 「そこに山小屋を興して」第5回で取り上げるのは、穂高連峰の稜線上、奥穂高岳と涸沢岳の鞍部である標高2,996mの白出のコルに建つ穂高岳山荘。鋭く切り立った岩稜が続く日本有数の難所の一角に、なぜ山小屋を築いたのか。3代目主人・今田恵さんによれば、原点には「登山者の安全を守りたい」という初代・重太郎の思いがあるという。

■始まりは「テント1張り」の敷地

開業当初の穂高小屋。コルの敷地はまだ狭い《写真提供:穂高岳山荘》

 穂高岳山荘の創業者・今田重太郎は、岐阜県上宝村蒲田温泉(現・高山市奥飛騨温泉郷)の出身。もともとは山案内人として主に槍ヶ岳から穂高岳のルートで山案内の仕事をしていたが、“ある出来事”がきっかけとなり、穂高の峻険な稜線に山小屋の建設を決意する。

重太郎さんは山案内人をされていたんですよね?

今田恵さん(以下、恵)「17歳のころから先輩案内人の仕事に同行して山案内の手ほどきを受け、独立後は殺生小屋(現・殺生ヒュッテ)専属の案内人として、槍ヶ岳や穂高岳でガイドをしていました。転機は1923(大正12)年、重太郎が24歳のときです。お客さんを連れて槍から穂高へと縦走していたのですが、途中で猛烈な雷雨に襲われて。その経験から『登山者の安全のためには穂高の稜線に山小屋が必要だ』と痛感したそうです。殺生小屋の主人であった中村喜代三郎さんに相談すると賛同してくれ、すぐに現地調査を行い、白出のコルにまずは小さな石室を建て始めます。それが穂高岳山荘の歴史の始まりなんです」

奥穂高岳山頂の今田重太郎。山頂の大ケルンも重太郎が10年の歳月をかけて積み上げた《写真提供:穂高岳山荘》
穂高岳山荘3代目の今田恵

登山者の安全を守る「避難小屋」としての役割が、穂高岳山荘の原点にあるわけですね。当時の白出のコルはかなり狭かったようですが、どのぐらいの広さだったんですか?

「テントが1張り張れる程度だったと聞いています。そんな狭い場所を、初代の重太郎の時代と、私の父で2代目の英雄の時代に、従業員とともにこつこつと土地造成(山の斜面を削ったり、谷側に石垣を積んで地面をかさ上げして、コルの平坦部を拡張する作業)を行い、今の敷地まで広げていったんです」

涸沢側の前庭の敷石工事の様子。巨大な石も人力で運んだ。1970(昭和45)年ごろ《写真提供:穂高岳山荘》

まずは平らでまっすぐな敷地を整備して、そこに建物を建てたから、切り立った稜線上という制約の多い場所であるにもかかわらず、穂高岳山荘は整然とした外観になっているんですね。

「そこは父が最もこだわったことの一つです。山荘の建物は、1973(昭和48)年に新館が、1975(昭和50)年に新々館が増築されています。父の中には『穂高の山々は端正で美しい。ならば、その真ん中にある穂高岳山荘も美しく、整然とした山小屋であるべきだ』という明確なイメージがありました。だからこそ、もともとあった本館と、新たに築いた新館、新々館を直線的に配置したんです。また、現在も食堂・受付棟として使用している新々館は構造や建材にもこだわっています。食堂は1、2階が吹き抜けになった広々とした空間で、建材には見た目が美しく、耐久性もあるヒノキを贅沢に使っています。父の理想を具現化した建物だったんです」

涸沢岳から奥穂高岳方面を眺める。山荘のまっすぐな外観がよくわかる《撮影:内田修》
新々館の吹き抜けの食堂《撮影:内田修》