■ 大正時代に開業した京阪の支線

 現在放送されているNHK大河ドラマは「光る君へ」。主人公は紫式部で、ドラマでは「まひろ」という名が設定されている。

 紫式部に縁のある場所はいくつもあるが、ひとつが宇治である。宇治市は大河にあやかって、「紫式部ゆかりのまち宇治魅力発信プロジェクト」という試みも行なっているという。

 というわけで今回からは、宇治への鉄道アクセスである京阪電鉄宇治線を紹介したい。

 京阪宇治線は1913年の開業。京阪本線の天満橋~五条間が営業を開始して3年後のことだ。もともとは宇治鉄道という会社が軌道施設の特許を得ていたが、1910年に京阪が買い取って建設をスタートさせている。

 路線距離は7.6km。本線の中書島駅(ちゅうしょじまえき)を始点とし、終点の宇治駅まで駅の数は8駅となっている。かつては三条への直通列車や、淀屋橋もしくは天満橋からの臨時列車も運行されていたが、現在は中書島~宇治間を結ぶワンマン運転の各駅停車のみとなっている。

■淀川水運の拠点だった伏見港

 中書島駅は本線の特急停車駅なので、大阪や京都からのアクセスはいい。駅の北側には酒どころ伏見の酒蔵や幕末の史跡が点在し、坂本龍馬が定宿にしていた寺田屋跡も最寄り駅は中書島となる。

 ただ、今回はあくまでも宇治沿線をたどるのが目的なので、北口ではなく南口で下車。駅のすぐ近くにあるのが、伏見港公園だ。

伏見港公園の中央広場

 園内には体育館やテニスコート、屋内・屋外プールまである。ただ、近くに海があるわけではなく、港らしきものも見当たらない。にもかかわらず、「港公園」とするのにはわけがある。

 豊臣秀吉が伏見城を築いた時代から1950年ごろまで、公園の辺りは「伏見の浜」と呼ばれ、淀川(宇治川)水運の拠点だった。そして、河川港である「伏見港」も設けられたのだが、水運の衰退で港としての機能は失われ、1967年に跡地を埋め立てて公園がつくられたのだ。

 そんな公園のテニスコートのそばに、生垣に囲まれた史蹟らしきものを発見する。立て看板には「織田信長公塚石(墓石)」と記されていて、秀吉が伏見城を居城としていたころ、主君を追慕するために立てたとする。

織田信長公塚石(墓石)の様子

 ところが年月を経て、塚石は地面に埋まってしまった。それを大阪は枚岡(東大阪市)にある法照寺の庵主が1955年に霊示によって掘り起こし、現在に至っているという。真偽のほどは定かではないが。

■船舶の往来を支えた三栖閘門

 公園から伏見の町中と宇治川を結ぶ「濠川(ごうがわ・ほりかわ)」を渡り、京都外環状線の高架下をくぐると、見えてくるのが「三栖閘門(みすこうもん)」だ。

伏見の町中を流れる濠川と宇治川を結ぶ三栖閘門

 高さ約16.7mの塔は堂々とした佇まいで、アールデコ風の意匠と真っ赤なゲートが印象的である。

 閘門とは、水位の異なる河川や運河に設けられる施設のこと。伏見の町中を流れる濠川から宇治川へ、もしくは逆のルートで船をいったん船溜に納め、二つのゲートで水位を調整したのち出航させるというシステムだ。

 三栖閘門は1929年につくられたが、こちらも水運の衰退で交通路としては利用されていない。しかし、かつての操作室は「三栖閘門資料館」として活用されている。

三栖閘門資料館の外観

 こちらの建物もアンティーク調で、文化財としての価値も高そうだ。

(つづく)